■クラブの歴史
昭和44年4月 | 体格、体力、協調性などの劣りがちな団地っ子のために、開成小学校の児嶋先生(故人)が 近江(当時有沢総合病院外科部長)にコーチを依頼、中村昭二氏がマネージャーとなって、サッカー 指導開始。 |
45年4月 | 元教育長山田先生(故人)、榊原先生、小西隆一氏が協力、開成サッカースポーツ少年団として 正式発足。 |
12月 | 山田先生の御尽力で教育委員会が開成小学校に水銀灯を設置、夜間練習可能となる。 |
47年4月 | その後、香陽、山之上、五常、春日などの校区の学童も加わったので、香里ヶ丘少年団と改称。 |
8月 | 小学6年生(第一期生、安井のクラス)、全国の強豪チームを招待した第一回清水招待大会で健闘 3位入賞。 |
12月 | 当時は、けって走るチームばかりで、枚方のボールを持つ自由な試合ぶりが異彩を放ち、第五回 兵庫県少年サッカー大会に招待され、県下54チームの中からみごとに優勝。巧技とセンスは絶賛 を浴びた。 ◎近江コーチ「サッカーノート上巻」出版 |
48年12月 | 小学4年生から始めた第一期生の中学進学を機に、小学生から大人までの一貫教育と、地域に 根を下ろした社会体育サッカークラブを目指して機構を改め、枚方フットボールクラブ(略称枚方FC) と改称。 ◎近江コーチ「サッカーノート下巻」出版 |
49年2月 | 小学6年生(第二期、佐々木博和のクラス)、抜群のドリブルで高石市主催第3回大阪府下 少年サッカー大会優勝。 |
50年5月 | ◎近江コーチ、サッカーマガジン誌に「新サッカーノート」、一年半にわたる連載開始 |
51年2月 | 小学6年生(第4期、村川兄のクラス)、第5回大阪大会準優勝。 |
52年8月 | ユースチーム(当時高2の安井など一期生と高1だつた佐々木)、長野県大町市で行われた 第一回全国クラブユース大会で優勝。 当時の美しいサッカーは今なお語り草となっている。 |
9月 | 中2(第4期、村川兄のクラス)河内長野で行われた第一回府下クラブ中学大会、中2ながら圧倒的 巧技で他の中3をよせつけず優勝。 |
12月 | 小学生時代から関西では有名だった佐々木博和(第2期)は、中学生になると、日本サッカー史上 比類ない名手と言われた。 この年、来日したペレ(ブラジル、サッカーの王様、キング・ペレと呼ばれた)も注目。「できれば私が 育ててみたい。」と語った。その後、最少年の16歳で日本ユース代表に選ばれて、翌年、中国戦 出場。鮮やかなドリブルで人々を驚嘆させた。ユーゴスラビアのリエカ大会にも出場。 |
53年4月 | 世界ユース大会(東京)に備えて、広く人材を求めた日本協会は、それまで学校チームから選んで なかったユース代表に、クラブの選手も採用。安井真(第1期)がヨーロッパ的センスを買われて、 クラブ出身ユース代表第1号。さらに吉村雅文も加わり、学校チームから選ばれた佐々木とで、 枚方FCからのユース代表は3名となった。 |
8月 | 佐々木、安井、吉村は、日本ユース代表欧州遠征に参加。なかでも、佐々木は大きな外人を スイスイ抜いて、「黄色いペレ」と大人気!ボールを持つと一斉に拍手歓声!日本人でもこんなに 巧いのがいるのか、本当に日本人か?ブラジル育ちではないか?本当に17歳か?行く所、行く所 で質問攻め。向こうの新聞に連日大きく扱われた。これまで何十回も日本チームが訪欧しているが こんなことは初めてで、監督、コーチはむろんのこと、在留邦人も鼻高々。 |
中3(第4期、村川兄のクラス)、西日本ジュニア・サッカー・サマーフェスティバルで、王者清水FCを 破って初優勝。 |
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53年10月 | 安井(当時高3)、バングラディシュのダッカで行われた第20回アジア・ユース大会に日本ユース 代表チームの一員として出場。 |
54年10月 | 一期生大学入学後、大学クラブに入部していた宮川が、コーチとして枚方FCに復帰する。卒業生 コーチの第1号であり、このころ より近江監督のスタッフとして卒業生が集まってくる。 |
11月 | 小6(第8期、吉岡弟、田家兄、目見田兄弟のクラス)、小柄なため苦戦しながらもよく頑張り、 第3回大阪府知事杯少年サッカー選手権大会優勝。 |
12月 | 同チームは、近畿各府県の1位2位のチームが集まった関西少年サッカー大会でも優勝。 さわやか杯獲得。近畿一となる。 |
55年11月 | 佐々木博和(第2期、松下電器)、初めて全日本Bチームに選ばれ、名選手クライフ(オランダ)の ワシントン・ディプロマッツ(米)と静岡で試合。初めて大衆に巧技を披露。 |
56年3月 | 枚方FC出身の日本代表第1号・佐々木博和は、全日本Aチームの香港遠征に参加、外国人記者から、 「シモセンのようだ」、と注目された。(シモセンは西ドイツプロ、168cm、欧州最優秀選手の名手) |
◎近江コーチ、サッカーダイジェスト誌に、「手作りサッカー講座」 二年半にわたる連載を開始。 |
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56年7月 | 中2(第8期、吉岡弟のクラス)、全国クラブ中2大会(交野カップ)優勝。 |
57年1月 | 中2、淡路招待大会優勝。 |
4月 | 当クラブOBによる代表チーム(成人)発足。大阪社会人リーグ加盟、5部よりスタート。同年全勝優勝。 |
59年2月 | 中2(第11期)、大阪クラブジュニアAリーグ優勝。 |
3月 | 第1回アーセナル杯開催、以後枚方FCの年中行事となる。 |
8月 | 高2(第8期、吉岡弟のクラス)を中心とするユースチーム、第8回全日本クラブユース選手権優勝。 変幻自在、技術の勝利と賞賛された。 |
第4回全国選抜中学生サロンフットボール大会、中1の部、準優勝(第12期)。 | |
9月 | 第2回関西クラブユース選手権優勝。 |
11月 | 中3(第10期)、大阪クラブジュニアAリーグ優勝。 |
12月 | 代表チーム、大阪社会人クラス別トーナメントBクラス優勝。 |
60年1月 | 中1(第12期)大阪クラブジュニアBリーグ優勝。 |
2月 | 中2(第11期、田家弟のクラス)、第3回大阪中学生ミニサッカー大会優勝。 |
代表チーム大阪社会人二部に昇格。 | |
父兄の白井隆氏を中心としたシニアチーム(HFC85)結成。 | |
8月 | 高3(第8期)第9回全日本クラブユース選手権、延長で破れ準優勝。 |
中3(第11期)、大阪クラブジュニアAリーグ優勝。 | |
61年1月 | 中2(第12期)、大阪クラブジュニアBリーグ優勝。 |
2月 | 中学Bチーム、第4回大阪中学生ミニサッカー大会、PKで惜敗、準優勝。 |
8月 | 中3(第12期、西山、小林のクラス)、第5回大阪クラブジュニアAリーグ優勝。 第1回全日本クラブジュニアユース選手権関西代表。 |
高2(第10期、村川弟のクラス)、第10回全日本クラブユース第3位。 | |
61年12月 | 代表チーム、大阪社会人リーグ1部に昇格。 |
63年3月 | 高2、関西クラブユース準優勝。 |
5月 | 代表チーム、大阪府代表として大阪・岡山対抗戦出場。大阪府に数年ぶりの勝利もたらす。 |
福重圭二(第11期)、クラブユース選抜の一員としてフランス遠征に参加。 | |
HFC85招待大会スタートする。以後年2回の行事となる。 第1回はHFC85が優勝。 |
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8月 | 中1(第16期、廣長、松本兄のクラス)、全国サロンフットボール大会優勝。 |
平成元年8月 | 神戸サマーフェスティバルで、中3チーム(第15期)決勝で清水FCに惜敗、準優勝。 |
2年3月 | 小5チーム(第19期、佐々木、中田のクラス)、頑張って、アーセナル杯準優勝、主催大会として最高の 大会であった。 |
4月 | 枚方FCレディースチーム発足。 |
6月 | 廣長(第16期、現桐蔭学園)ジュニアユース代表として、アジアユース大会出場、惜しくも日本は 得失点差でアジア代表権を逃す。 |
3年3月 | 石丸(第14期)、日本ユース代表候補として合宿に参加。 |
ユース第1回京都暁招待大会優勝。 | |
8月 | ユース(第14期・15期)クラブユース大会決勝で読売クラブに惜敗。準優勝。 |
9月 | 代表チーム天皇杯大阪府代表として関西大会へ出場。 |
10月 | 代表チームのOBチーム、マスターズ結成。 |
4年2月 | ユース(第15期)関西クラブユースリーグ優勝。 |
近江達(現アドバイザー)「日本サッカーにルネッサンスはおこるか」を自費出版。 | |
3月 | ユース第2回京都暁大会優勝。 |
4月 | ユース京都教育大招待大会優勝。 |
5年5月 | 日本初のプロサッカー・Jリーグスタート。 枚方FC OB 佐々木博和(川崎)、宮沢 浩(市原)がプロ選手として活躍。 |
12月 | 廣長優志(第16期)川崎へ入団。枚方FC OBで3人目のJリーガーとなる。 |
6年4月 | 佐々木、川島、橋本氏らの御尽力で保護者会が正式発足。 |