(43)§四回生 近江 達
§四回生
 昭和27年4月(1952)、23歳、医学部四回生になって、三回生からの内科外科の臨床講義に、各科で学生が白衣を着て外来患者を予診し、そのあと、教授がその患者を診察、診断するのを見学するポリクリが加わった。授業形態は戦前のままだった。世の中は敗戦直後の荒廃から年々回復してきたが、いろいろ変化もあり事件も起こった。
 京都は米軍が古都保存か占領後利用する為か空襲しなかったので、阪神間のような焼け跡も闇市も無く、まだ賑わいはないが街は綺麗で人心もさほど荒れてなかった。お陰で敗戦から数年たって物資が出回り始めると、先ず服装が整いお洒落になり食糧事情もやっとよくなって、28年頃には街の食堂で米飯の食事が出来るようになった。
 自由な国に変わって共産党全盛、メーデー騒動の一方、開放的気分でパチンコ屋が繁盛した。昔パチンコは貧弱なゲームセンターや夜店の屋台の粗末なもので誰も遊ばれなかったのに、戦後、景品換金ありの派手なゲーム機に変わると軍艦マーチに煽られて人々は熱中、プロが生まれ学費を稼ぐ学生もいて、史上初の大流行になった。面白い事に国民性か文化の違いか、大好きなのは日本人だけで、外人は皆嫌った。
 酒も麻雀もやらぬ私は映画青年で、京都河原町、高島屋の地下に往年のフランス名画などを上映する小さな映画館があって毎週見に行った。職人芸のデュビビエ、コメディ・タッチのルネ・クレール、芸術家ルノワール、文学的なマルセル・カルネ、戦後イタリアン・リアリズムのロッセリーニ、デ・シーカなど、名監督たちの作品は情感ゆたかで美しくいつも感動し魅了された。(ちなみに今のテレビの連中が作るドラマには映画が見せる映像美が無い。美への追及さえ無い。芸術性が決定的に違う! )
時々京大時計台下の講堂であった巌本真理や辻久子のバイオリン、ピアノ、オーケストラなどのコンサートに行った。農学部の永井源(元松江高マンドリン・クラブ)がバイオリンを習って京大オーケストラに入ったので、私も習い始めたがサッカーもあるし、やる気はあったが教室に来ている人たちと違和感もあり一年半でやめた。

§最後の夏休み、入院手術
 学生最後の夏休み、幼い頃のはしかで鼻が悪くなり慢性化してひどかったので、卒業後に備えて手術を受ける事にした。年中風邪をひくし、親は、根気がなく長時間勉強出来ないのはその為だと言う。自分でも性格が暗く頭が良くないのをそのせいにして、半ば冗談だが、これさえ無かったら頭が冴えているのにと思ってみたりした。
 正確には慢性副鼻腔炎で、京大病院耳鼻科に入院して左横の副鼻腔、右横、左奥、右奥と1週間ごとに計4回手術を受けた。手術後痛んでひどく腫れて出血し、苦痛が和らいできてほっとする頃次ぎの手術になるから大変だった。麻酔注射して悪い粘膜と骨を除去するが、奥の方は眼球を傷つける恐れがあり患部を取り切れず少し残った。でも8割がた治ったし、心なしか頭が悪いのも少しましになったようで感謝している。
 その間、入院中の経済学部と理学部の京大生二人と親しくなり、退院後も秋に保津川下りをしたり楽しかった。私は心身が完璧とか頑強な人よりもどこか少し弱いところのある人の方がいい。自分が強くないからだが、医者はそれでもいいように思う。気力強烈とか健康過ぎる医者は弱い患者の心情や苦痛がよくわからないかも知れない。

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