(1)生い立ちの記 近江 達
 昭和4年(1929)、私は神戸市長田区大橋町の開業医の長男として生まれた。名前は達(すすむ)は、達してさらに進むようにと付けられた。姓の近江は、昔、琵琶湖の別称、海が近淡海になり近江になった。だから先祖は滋賀県出身に違いないが、祖父も父も秋田生まれなのは、先祖が近江の国から秋田に移住したのだろう。鉱山に務めた祖父はズーズー弁だが頭の良さそうな立派な紳士で、残っていた製図用具は素晴らしい高級品だった。祖母は秋田美人で、父は、男5人、女2人の長男だった。
父は短気な怒りっぽい人で、秋田中学でストライキをやった為に追放されて、東京の開成に転校。慶応大学部を受験したが、試験日に上京して来た祖母を迎えに行く羽目になり欠席したとかで、新潟医大に進んだ。医者になってからも、上司や病院側と衝突して勤務先を変わるといった事が何度もあって、神戸へ流れて来たらしい。
昭和初期はまだ市電が中心で、みなと祭りには花電車が何台も出て綺麗だった。女性は殆ど和服、男性はソフト、夏はカンカン帽やパナマ帽で、オイチニの薬売りが手風琴を弾きながら歩いているのを見た記憶がある。自転車が少なく、流しの円タク(料金1円タクシー)の運転手が、「大将、50銭!」、と叫んで客を取っていた。今、珍重されている人力車も町中を走っていた。うちにも分院への往復や往診に使う自家用の人力車があり、よく乗せてもらったので幌の匂いを今でも覚えている。当時が我が家の全盛期で、住みこみのお手伝いや看護婦が三、四人いた。しかし栄華は長くは続かず、父が病気になり開業医を止めて、小学二年生になる春、一家は母の両親や妹が住んでいた六甲に引っ越した。
 環境は一変した。それまで坊っちゃん育ちで周りからチヤホヤされお山の大将だった私は、転校で見知らぬ集団の中に放りこまれ、独りぼっちになってすっかり内気になってしまった。三年生になり組み替えで気分が変わり暗さはかなり取れたけれども、以前の活発さは戻らず、すっかり無口で感情を外に出さない子になってしまった。成長期だから丁度そんな変化が起こる時期だったのかも知れないが、とにかく転校は私にとってショッキングな大事件だった。
 それはさておき、その後、進学や仕事などでいろんな所に移り生活したが、私は神戸のさっぱりして物分かりの良い何となく洒落た気風が好きで、16歳まで育った戦前の六甲が懐かしく今も愛着がある。神戸は北が山、南が海。戦前は子供の遊び場にもってこいの野原や砂地の空き地が方々にあって、小学校から帰ると、父の言い付けどおりすぐ机に向い、ものの15分くらい勉強したら外へ遊びに飛び出すのが日課だった。
 六甲は教育レベルの高い所で、当時でも同級生たちは先生に勉強時間を尋ねられると、二時間、三時間などと答えていたが、私には信じられなかった。もっとも私も、そんな中でまさか15分とは答えかねて一時間と嘘をついたが、勉強の中身が充実していて、能率良く目的が達成出来さえしたら、時間は短くてもよい筈だ。私だって難しかった鶴亀算のように必要な場合は充分時間をかけた。しかし、ただ人がやるから自分も同じようにするという在り方は、子供の頃から否(いや)だった。たとえば高校生になると皆喫煙する。大抵真似や付き合いで始めるのだが、私はそういうのが嫌いで、自分自身が吸いたいと思わなかったから吸わなかった。これは今も変わっていない。

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