(2)生傷が絶えなかった小学生時代 近江 達
 私はもともと丈夫な方ではない。とりわけ幼い頃はいつも風邪ぎみで病気がちだった。吃驚するくらい大きな扁桃腺肥大で入院手術までしたが、六甲で生活するうちに以前より健康になった。ゲームセンターはお粗末なのが繁華街にほんの少しあるだけ、男子はむろんのこと、女の子でも戸外でよく遊んだ。私は勝負事が嫌いでベーゴマなどはやらなかったが、コマを回して手に乗せ綱渡りからヨーヨーとか、凧揚げ、角力など、たいていの遊びはやった。今の子供たちが知らない危ない遊びもあった。
 例えば、放課後での摩耶山くらい充分往復できたから、近くの山に登るのはほんの散歩で、樵(きこり)の子の所に遊びに行くと、よく砂地の急斜面を30米くらい板切れを橇(そり)のようにして滑降して遊んだ。危険だからスリリングで面白く、繰り返しているうちに半ズボンが破れてしまって、うち迄手で押さえて帰ったことがあった。
 水害のあと、河川工事で200米くらいレールを敷き傾斜を利用してトロッコが走っていた。戦前は人力で取り除いた土砂をそうして運んだのである。早速これはチャンスとばかり、夕方、人夫たちが帰ったあとトロッコに乗って遊んだ。上り坂を三、四人でトロッコを押して行き、登りきって下り坂に変わる瞬間、飛び乗り一気に滑走する。かなりのスピードでゴーゴーと風を切り爽快この上ない。ところが、ある日、トロッコから足を横に出していたら、トロッコが走っていくうちに岩に足が引っ掛かり怪我してしまった。一寸傷が深かったが、骨折も化膿もしないで治ったので助かった。
 よく六甲中学の下の赤腹(イモリ)のいる池で泳いだが、あるとき、運悪くそんな所になど来ない筈の優等生に見つかって告げ口され、先生に叱られた事もあった。
 夏、日が暮れると、夕空を大きなヤンマが南の方から山の塒(ねぐら)へ、或いは高久或いは低く次々に帰って行く。そこでトンボツリやった。60センチくらいの糸の両端に小石をくくりつけて、飛んでいるヤンマの眼の前にタイミング良く投げ上げる。高さ数米から10米くらいで、ヤンマが小石を虫と間違えて食べにくると、うまくいけば糸に絡まって落ちてくる。毎日、うちの前の広い道路で熱中していると、上ばっかり見ていたものだから自転車と衝突してしまい、足の甲が抉れてかなり出血した。
 こんな調子だから擦り傷など怪我と思ってなかった。むろん、野球もよくやった。たいていキャッチャーで、一塁牽制や二塁に投げて盗塁をアウトにするのが好きで、かなり打てた。サッカーをやるのは野球仲間とは違う連中もいて、中学生もいた。
 小さい頃はよく女の子と間違えられたし、おとなしかったから、そんなに外でばかり遊ぶようには見えなかったらしい。でも、家の中で友達と話したりゲームなどで遊ぶのが嫌いで、それくらいならうちで独りで読書や絵をかいたりする方が良かった。
 ところが外で遊ぼうと誘いに行っても、夏の猛暑や冬、北風が強い寒い日など、まず誰も出て来ない。たぶん親も止めたのだろう。お世辞なのか皮肉なのかお母さんに、「近江君はいつも元気ね」、などと言われて帰って来たこともあった。
 何しろラジオしか無かった頃の話で、今の子供達は勉強が大変らしいし、何よりもテレビの存在が大きすぎる。時代が違うから仕方がないけれども、子供達はもっと外で遊ばないといけない。動物の子供達がさかんに走りまわりじゃれあうのは、それが成長に必要不可欠だからに違いない。人間の子供達もそこは同じだと思う。

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