(3)明治は遠くなりにけり 近江 達
 当節、少年の犯罪や素行に問題が起こると、よく家庭での倫理教育の欠落と必要性が強調されるが、確かに戦前は多くの家庭に躾(しつけ)や倫理教育のようなものがあった。私の両親は明治生まれ。日本が近代国家を目指した黎明期、明治の人々は身分や貧富を問わず分相応に万事に斯くあるべしという信条的なものを持っていて、社会も家庭も忠君愛国、親孝行や家長制度、長幼の序など、教育勅語や儒教的規範の遵守によって秩序が保たれ、親は子に、師は弟子に、上司は部下に、信ずるところを教え指令して止まなかった。それは昭和になっても変わらず戦争中も続いたが、敗戦の日を境に以後次第に薄れて行った。いわゆる家庭内教育もその一つである。
 だから父もご多分にもれず、よく学びよく遊べ、陰日向(かげひなた)の無い人間になれ、などと、人としてのあり方や生活などの指針をよく口にし、紙に書いて机の前に貼ったりした。しかし、いささか理不屈に思えて閉口したこともあった。
 優しい男性が好まれる昨今だが、当時は全く逆で、男は男らしく剛健を良しとした。私の優柔不断で曖味に見える柔和な態度が気に入らなかった父は、男は意味なく笑うな!はっきりしろ!とうるさく言った。その為に、幼い頃いつもニコニコしていた私から次第に笑顔が消え、中学生以後、微笑(ほほえ)みながら話すことは無くなりすっかり無愛想になってしまった。とにかくよく叱られた。夕食の最中でも小言を言われ、どうかすると、まださほど悲しくないのに涙の方が勝手に流れ始め、それを見た父がますます苛立つといった始末で、お茶漬けならぬ涙漬も珍しくなかった。
 
密(ひそ)かなる挽歌
 父は酒好きの上、爪が黄色くなったヘビースモーカーで、それが反面教師になったのか私は酒も煙草もやらない。他人に厳しく自分に甘かった父は、怒った次ぎの瞬間、不思議なくらいケロッと普通に戻れる人で、私とキャッチボールや山登りをしたりプロ野球やニュース映画、食事などによく連れて行ってくれた。そのためにわざわざ遠く迄、遊びに行った私を探しに来てくれたこともあった。小説家志望だったという彼は本選びの目利きで、山本有三やケストナー(独)の作品など、子供向きの面白い本や伝記、名作をよく買ってくれた。だから私の読書や一般教養は父の影響が大きい。
 父は72歳で亡くなった。散々怒られたけれども、偉くなれとか、負けるな、出世しろとは一度も言わなかった父は、私にどうなって欲しかったのだろう?私もこの年になって、父は子供の頃の私が可愛くて可愛くて仕方なかったのだ!と解るようになった。男の子は年頃になると、父親と疎遠になる。私もそうだったが、晩年、菊作りに凝り歴史ものが好きだった父ともっと話をしてあげればよかったと、時折思い出す。
 しっかり者できつい方だった母は、短気な上、経済音痴だった父の為に相当苦労したので、私に高校生になった頃から苦労話や父への不平不満、非難など散々愚痴をこぼした。でも聞いているうちに、いつももの悲しくなってきて、内面の弱かった父を哀れに思いこそすれ、軽蔑も反抗もする気にはなれなかった。向こう意気の強さが父に災いしたけれども、もし私にあの気の強さが幾分でもあれば、違った人生が開けただろう。サッカーでも、もっと自信をもって素晴らしいプレーが出来たに違いない。

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