(4)神戸外人クラブ(KRAC) 近江 達
 私が少年時代を過ごした昭和10年頃、東西に細長い港町神戸には、山手から山麓の高台にかけて外国人が大勢住んでいた。国籍、年齢、職業は多種多様、中国人を除けば、当時、西洋人と呼んでいた白人が多く、アラブ人やインド人もいて、まだマイカーは少なく阪急電車によく乗っていた。白人達はスポーツ好きで、日本でゴルフをどこでも、行く先々で居留地にスポーツクラブを作る習慣があるらしい。
 三宮の南、海岸に近い辺り一帯は昔居留地だった所で、メリケン波止場に近い東遊園地のグラウンドには石段のスタンドがあり、休日によくサッカーをやっていた。そこで何度か神戸外人クラブの試合を見たことがある。なかなか上手で楽しそうだった。
 詳しい事は知らないが、日本にサッカーを持ち込んだ草分けのクラブだと云う説もあるので、創立は明治だろう。横浜外人クラブとの定期戦以外に日本の大学や社会人とも試合したから、日本人にとっては貴重な経験で、神戸のサッカーが戦前早くから他の地域のサッカーとは質の異なる、レベルの高い洗練されたものになった背景には、外人クラブの影響があったと、私は想像している。白のパンツに和製の湿っぽい赤とは違う外人特有の鮮やかな真紅(しんく)のユニフォームが眼に残っている。

教育とサッカー
 クラブ中心の外国と違い、日本のサッカーは明治30年頃の東京高等師範での発足から最近まで、学校サッカー部とそのOBだけで行われて来た。戦前、脚光を浴びたのは有名大学や中学の活躍だが、中核となったのは師範学校や高等師範で、そのサッカー部員が卒業し先生になって全国各地の学校でサッカーを指導、普及し、さらに彼らの教え子が大学や社会人チームの選手になり指導者にもなっていた。こうして長年にわたって殆ど、(後の教育大や大学教育学部などのOBを含む)教育が末端に至るまで現場を取り仕切り、日本のサッカーをあらかた作りあげ進めて来たのである。
 阪神間の先達となった御影師範が大正時代から全国制覇したりして強かったし、外人クラブもあるモダンな土壌に恵まれて、神戸は戦前、既にサッカーが盛んだった。私の六甲小学校でも先生たちが他校の先生と試合していたくらいである。今だってそんな交流は少ないのに、六十年以上も前に、と意外に思われるだろうが、当時の教員は、師範などの学生時代、別段サッカー部員でなかった人たちでも皆、それくらいサッカーに馴染んでいたのである。もっとも先生たちはユニフォーム無し。それどころか、小学校にゴールが無かったので立木や鉄棒などをゴールに見立て、ラインも引いてなかった。引こうにも砂場や藤棚などがあり、輪郭が凸凹過ぎて引けなかったのだろう。
 戦前、神戸には御影師範付属小など、数校に小学生チームがあったという。なかでも雲中(うんちゅう)小学校は有名で、そこから神戸一中蹴球部に進んで全国制覇を狙い、有名大学に入って活躍し優秀選手は日本代表に選ばれるという道が開拓されていった。これは少年サッカーが盛んな今日でも驚くべき業績である。むろん、そんな事など小学校だった私は知る由もなかった。肝心のサッカーを何時知ったのかさえ定かでないが、初めて実際にサッカーを見たのは、たぶん、東遊園地での試合だろうと思う。

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