(8)母の心配性と卒業旅行の話 近江 達
母の心配性と卒業旅行の話
 昔の運動靴は弱くてサッカーをやると簡単に穴があいた。修繕してもすぐ破ってしまったから何足履き潰したことか、戦争で物資不足のために母は困ったらしい。
 母は三姉妹の長女で、岡山出身の貿易商だった実家は既に商売に失敗して没落、母の両親と三女は次女夫婦が居た六甲に移り、玉突き屋(今のビリヤード場)を始めた。当時の台は今のと違い四隅の穴はなく、赤玉2個、白玉2個で、自分の玉を突いて相手の玉に当てた点数で勝敗を争った。やがて私たち一家もすぐ近所に引っ越したので、私はしょっちゅう祖母や叔母のうちに遊びに行って勝手に上がり込んでいた。
 母は映画、観劇が好きで、私も一緒に宝塚歌劇も見に行ったし、弁士が喋る無声映画を見た事も覚えている。二人で映画の話をするのが楽しみだった。母はかなりの心配性だったが、不思議なことに、私があれほど怪我したり靴を破ったりしたのに、遊ぶなともサッカーをやめろとも言わなかった。今思うと、年とってからでも竹馬に乗れたし平気で屋根に上がるくらい運動神経が良くて、子供の頃、男勝りで田舎の野山を散々駆け回って遊んだ人だったから、そういう事には理解があったのだろう。
 だがそれ以外は、私が何かしようとすると必ず反対した。卒業旅行の伊勢参りに行かせないと頑張った時には困った。先生に不参加の理由を、母が何か起こるといけないからと心配して、とは恥ずかしくて言えなくて、苦し紛れに、「乗り物酔いで」と言ってしまった。結局、先生に面倒見るからと言われて参加する事になり、本当は酔わないのだから旅行は無事に終わった。ただ私がひどい汗かきの為に、先生が心配して、「気分が悪いのか」と何度も尋ねてくれたので、申し訳なかった。

中学受験、神戸一中か、二中か?
 六年生の夏休みが終わって私は二学期の組長になり、いよいよ進学したい中学を決めることになった。大体、クラスのトップあたりが神戸一中を目指して、次ぎが二中、三中を受ける、競争倍率はほぼ二倍、というのが毎年の通例だった。
 私は進学について何もわからなかったが、父が三中を選んだ。先生は、私が一中を受けるものと思っていたようで意外だったらしいが、父は、おとなしい私には、競争心や出世欲の強い目端の利く秀才が集まる一中よりも、レベルは少し落ちてもいいからのんびり行ける三中の方が向いていると考えたと言う。実はこの時、同学年の従兄弟(母の妹の子)も三中を受けたのだが、たぶん親同士が相談して、二人が違う中学に入るよりも、同じ中学の方が無難でよいと云う事になったのだろう。
 こうして私の第一志望は神戸三中、第二志望が灘中になった。今の灘は自他共に許す日本一の進学校だが、それは戦後、三中の梶教頭が灘の校長になってからそうなったので、昔は神戸一中など公立中学入試の落ち武者の受け皿だった。
 当時、サッカー界では神戸一中は既に何回も全国制覇していた。もし私が一中を受けていたらきっと合格出来たから、名門神戸一中のサッカー部員になれたに違いない。だが、それは今だからそう思うので、当時の私にはそんな知識は皆無だった。まして両親に至ってはサッカーなど眼中になかった。だから、サッカーをやりたいから一中へ行くということは所詮あり得なかったわけである。

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