(9)戦時中、神戸三中入学 近江 達
戦時中、神戸三中入学
 中学入試は前年から、戦争中だから次代の戦士には知識より心身こそ重要と考えたのか、筆記試験がなくなり口頭試問だけだった。私が小三の時始まった中国との戦争はもう四年目に入っていて、占領地域は拡大し傀儡政権まで出来たけれども、戦争終結の見通しが立たないばかりか、その為に英米との関係が年々悪化し、時局はもはや英米との戦争もやむなしか、と云う切羽詰まったところまで来ていたらしい。
 口頭試問に備えて、小学校では先生が試験管になり、礼儀正しく部屋に入り、質問にしっかりした態度で明快に答えて退出できるように練習を繰り返した。だが、せっかく準備したのに入試本番は何と云うこともなく終わり、従兄弟も私も無事合格した。昭和16年(1941)の春、太平洋戦争が始まる8ヵ月前のことだった。
 三中は神戸の中央より少し西の高台にあった。通学は阪急電車、市電と乗り継ぎ、校則で、三中に近い停留所の二つ手前で降りて歩くので70分はかかった。制服、制帽だが、学生帽でなく戦闘帽で、黒の編み上げ靴以外はすべて国防色だった。
 登下校は制服制帽に背のう(ズックのランドセル)を背負い、長ズボンに必ずゲートルを巻いた。ゲートルとは日本陸軍の兵隊がつけている幅7センチくらいの長い帯状の布で、
長ズボンの上に足首から膝の下まで螺旋状に巻き上げて止めた。校外で先生や上級生に出会うと挙手の敬礼で、登下校は、学年学級を問わず三中生が二人以上集まった場合は上級生を長として二列縦隊で歩き、教師に出会ったら、号令で、「歩調とれ!頭(かしら)右!」、とやる。戦時中の我々中学生は服装、動作、すべて軍隊式で、教練の時間には、退役の将校が教官で兵隊の基礎訓練のようなことをやった。

全国(内地)制覇した神戸三中蹴球部に入部
 学校が遠いので、寝ぼけ半分で朝食をかきこんで6時半過ぎにはうちを出た。ところが慣れてくると、出発はもっと早くなった。早く着くと校庭はガラあきで、朝礼まで少しでも長い時間広い所でテニスボールのサッカーが出来るからだ。むろん昼休みもやった。三中はサッカーが盛んで、昼休みには大勢が入り乱れて走り回った。そんな環境だから、私が蹴球部に入ろうと思ったのは当然の成り行きだった。
 昭和15年(1940)、神戸三中蹴球部は兵庫県代表になり内地の中学大会で初優勝、朝鮮半島代表の普成中学との決勝戦に臨んだ。(当時、朝鮮半島、現在の韓国と北朝鮮は日本の領土だった)。しかし相手は大人びていて三中は攻撃に抗しきれず敗れた。
 後日談がある。評論家の賀川浩さんは当時、神戸一中生で、個人技の優れた三中の敗戦を目撃して普成の体格、走力、パワーに対抗するには一中伝統のショートパス戦法しかないと決意した。そして昭和17年(1942)、内地制覇した一中は再度登場した半島代表、普成中学と死闘の末、2対2で見事に同意優勝を果たしたのである。
 私が入学したのは、三中があの悲喜こもごもの内地日本一になった翌年だった。こんな場合、地方ならさしずめ大騒ぎで一年生が蹴球部に大勢入るところだろうが、三中はPR不足と熱くならない神戸人気質のせいか一向に盛り上がらなかった。サッカー好きはかなりいたけれども、蹴球部はいや、部活は困ると言う者ばかりで、結局、実際に入部したのは私を含め7人しかいなかった。

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