(13)初試合 近江 達
初試合
 中一の冬、ジュニアの試合にセンターフォワードで出場することになった。でもそのための練習や指導は無かった。試合が始まったが、どうしたらいいのか分からないので、上級生の見様見真似でプレーしたつもりだが、生まれて初めての試合なので無我夢中、何度かボールにさわった事しか覚えてない。
 昔はどこでもこうして基本技術だけの初心者が、いきなり試合に出されたのである。柔道に例えると、投げの型だけ稽古して試合に出るようなものだから、うまくいく筈がなかった。フォーメーションやポジション別プレーの指導練習の必要性もさる事ながら、試合に近い模擬テスト的な練習ゼロが致命的な欠陥だったと思う。
 こうした私の経験と反省から、枚方FCでは子供の頃から、常時、いろんな人数のゲームや試合中のような相手ありの実戦的練習を行っているわけで、こうすれば普段のやり方を試合で応用出来るので、選手の技能には昔となら雲泥の差が認められる。

右ウイングに抜擢
 夏休みには関学の先輩(かつての優勝メンバー)が来て指導した。三中の練習は関学に準じたものだったらしい。ウイングの位置からスタートして、中央から斜め外へコーナーに向かって出されたボールを、ダイレクトでゴール前にセンタリングするプレーを、全員が順番にやらされたところ、ジュニアでは私が一番うまかった。お陰で中二の冬のジュニア大会は右ウイングで出場し、センタリングは成功したが、得点は出来なかった。コーナーキックを蹴ったが、一本がうまく合って、後に大阪経済大に進んだ長という選手がヘディングで得点し、日頃目をかけてくれた五年生の越智さんに褒められた。ベルリン・オリンピック百米走、走幅跳び優勝のオーエンス(米)に似て精悍そのものだった越智さんは後に学徒出陣で戦死したが、それから七年後、私が京大蹴球部に入ると、縁があったのか二年上に旧制松山高校出身の彼の弟さんがいて好意的に接してくれた。懐かしい思い出である。

抜群の巧技、神戸一中サッカー
 その年(昭和17年)、県予選決勝で三中は一中と対戦した。ところが当日、西宮球技場で三中がウォームアップしているのに一中勢は姿を見せない。不審に思っていると、試合開始直前に、突然、彼らが颯爽と走り込んで登場。心憎い演出だった。
 三中は頑張ったが、何しろ一中が巧すぎた。鴇田、岩谷など、後に日本代表を長年続けることになる名手たちは、まるでイングランドの快速フォワードさながらにショートパスとドリブルで波状攻撃をかけ、三中のキーパーが必死でファイン・セーブを連発したが、5−0くらいで一中が完勝した。あの時の光景は今でも目に浮かぶ。このチームは内地大会で優勝して、あの朝鮮半島代表、普成中と対戦、死闘の末、2−2で引き分け同意優勝を遂げた。一中生で参謀役だった賀川浩さんは、普成をショートパスで攻めるのはいいが、彼らの突進をどうやって防ぐのかということになり、「とにかく、進んで来る相手の前に立て、正面を塞げ!」と指令して戦ったと云う。一中は次ぎの大会でも半島代表の培材中に3−0で勝ち全国制覇を続けた。

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