(14)挫折 近江 達
§挫折
 昭和16年(1941)12月8日、中一の冬、米英、連合国相手に太平洋戦争が始まった。緒戦の真珠湾攻撃から日本が連戦連勝で東南アジア、インドネシアなどを占領し太平洋を制圧。国民は提灯行列で勝利を祝った。ところが翌17年6月、ミッドウェー海戦の敗北からアメリカの反撃が始り、戦局は次第に不利に傾いていった。
 授業の方に変化はなく、私はいつもどおり朝早く出て夜8時前に帰宅、休日もサッカーというゆとり無いきつい生活を繰り返していた。それでも一年生の間は毎日が夢中だったから何とも思わなかったが、2年目になると流石にいつも疲労感があり、勉強とサッカーの両立を徐々に重荷に感じるようになり、こういう生活がこの先、三年生、四年生と続くとなると、そつなくやり通せるかどうか自信は無かった。
 そこへ追い討ちをかけるような事が起こった。もともと頑健でない私は手足が冷たい。つまり手足の血行が良くない体質で、冬、凍傷(しもやけ)になり易かった。小学校は帰宅迄、時間が短く手袋が出来たので無事だったが、三中は手袋禁止で、朝早くから夜まで、サッカーの部活までして長時間寒冷の中にいる為に忽ち凍傷になってしまった。足は靴をはくので赤く腫れて痛痒い程度ですんだが、手や指のはひどかったので今でも傷痕が残っている。並の傷痕ではなく、皮膚が何ヵ所も限局的壊死に陥り崩れて潰瘍になってしまったのである。怪我の治りは早い方だったが、手と指の凍傷は何しろ皮膚が死んで脱落して傷になるくらい血の循環が悪いわけだから、どうしても春になり完全に暖かくなってしまってからでないと治らなかった。
 軟膏を塗って両手から指先迄包帯を巻き、学校の許可をもらってその上から手袋をしたが、少々痛くても部活は休まなかった。だが練習すると帰りが夜になって冷えるので、凍傷にこたえた。包帯姿だけでも惨めなのに、学校中で自分一人だけだから情なくて、すっかり憂鬱になり落ち込んでしまった。

§退部、三中蹴球部のその後
 これからも冬にサッカー練習をする限り凍傷になる事は確実だった。しかし凍傷予防の為に冬だけ部活を休む事は出来そうになかったので、今後の勉強の事や進学など、いろいろ悩み考えた結果、私は遂に蹴球部を止めるしかないと決心した。そこで、その頃多分慢性疲労の為だろうが、凍傷でない時でも手足が少しむくんで身体がだるかったので、脚気という病気を理由にして、父に退部届けを書いてもらって主将に送った。これ迄にやめた者は殴られたと聞いていたから、主将に呼び出された時、私も殴られると覚悟をしていたが、話だけですんなり退部を認めてくれた。二年生の三月の事で、そのあと、同学年の部員も他の上級生部員も何も言わなかった。
 こうして私の中学サッカーは二年間で終わった。三年後、私は進学した旧制高校で病気休学したから、あのまま続けていたらきっと身体を壊したに違いない。遠くから通学する者の場合、練習は毎日でなく週三、四日が妥当だったと思う。止めた翌年(私は三年生)は蹴球部はまだ今迄どおり練習も試合も出来たらしい。だが次の19年(四年生)になると戦局悪化で、中学生にも勤労動員令が下り全員が工場に駆り出され、20年には空襲で神戸が焼け野原になり、サッカーどころではなくなってしまった。

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