(15)行軍 近江 達
§行軍
 戦局が進むにつれて戦時色が強まり、女性はモンペ姿、男性は国防服が常識になった。物資不足の為に食糧や衣類はとっくに配給制になっていたし、空襲に備えてどんどん防空壕が掘られて、防空演習やバケツ・リレーの消化訓練が繰り返された。
 教練の行軍には先生たちも戦闘帽にゲートル姿で参加。中二からは銃使用で、背のうを背負い校庭に整列、「担え、銃(つつ)!」の号令で重い三八式歩兵銃を右肩に担い、「前へ進め!」で出発し足並み揃えてひたすら歩いた。行軍中に軍歌を輪唱したり、飯盒炊さんやテントなしで夜営して、固い冷たい地面にゴロ寝した事もあった。陸軍演習地の兵舎に合宿、野戦(広野での戦闘)の演習では空砲を撃ち、後日、数発だが実弾射撃も体験した。査閲といって陸軍の司令官の前で観兵式まがいの事まで行われた。きっと軍部は我々を本土決戦用の少年兵予備軍と見なしていたに違いない。

§受験勉強、クラス・マッチ
 蹴球部を辞めてから早く帰宅できたので、身体が随分楽になり時間にも余裕が出来た。中三で早くも旧制高校受験準備に通信添削をやっている者がいて、私もやってみたが難解で、実際の入試はもっと易しいのではないかと思った。一緒に帰る友達も出来た。私はどちらかと言えば、あまり勉強の出来ないおとなし目か、多少不良がかった者と親しくなる癖があって、優等生は何故かあまり馴染めなかった。
 休み時間の遊びのサッカーでは、ボールを追いかけて校庭の防火用水に飛びこんだ事があった。そのくらい熱中したものだが、病気を理由に蹴球部を止めた手前暫くやめていた。だが、たまたまクラス対抗があって断り切れなくて出たところ、右インナーの位置から20米のシュートで得点したものだから、レフリーをしていた同学年の蹴球部の近藤に、「試合に出られるぞ!」と冷やかされた。

§勤労動員で工場へ
 戦況は日増しに日本に不利だったが、大本営発表は退却を転進、全滅を玉砕と言い換えて、敗北を絶対に認めなかった。それでも皆日本の敗戦続きはわかっていたから、祖国の危機を憂いお国の為に命を捧げたいと、少年兵志願者が次々に何人も出た。
 昭和19年、私は四年生になり第四組の総代になった。旧制中学は本来五年制だが、戦争の為四年生で卒業と決定。その上、工員不足で勤労動員令が下り、勉強は一学期で中止、三菱電機で見習い工員がわりに働いたが、工場で活動中の機械は全部外国製で、新しい国産の機械が入ってもすぐ故障して二度と使えなかった。まさかこれ程貧弱な工業力でアメリカと戦っているとは夢にも思ってなかったから、実に意外で複雑な気持ちだった。だがいい事もあり、うちでは雑炊や代用食ばかりだったが軍需工場は特別配給でしっかり食べさせてくれたので助かった。衣類も手に入らず、金ボタンの代わりに陶器のボタンがついた私の学生服は、生地のスフという繊維が弱くすぐ破れたので、もとの生地が分からぬくらい継ぎはぎだらけになってしまった。
制海権がアメリカに奪われてからは、輸送船がどんどん撃沈された為に南方の日本軍は補給を断たれて孤立し、サイパン陥落で内地空襲は時間の問題になった。

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