(16)旧制高校受験と宮本武蔵 近江 達
§旧制高校受験と宮本武蔵
 工員生活を続けているうちに進学志望校を決める時期になった。戦争で入試の早い陸軍士官学校(陸士)、海軍兵学校(海兵)を受験する者が増えたが、私はもともとそんな柄ではなかったし、正直言って、軍人の肩肘張った態度が性に合わず、威圧的な言動や特権意識、裏のありそうな偽善性が嫌いだった。むろん、そうでない立派な軍人がいる事も知っていたが、とにかく私の志望は一貫して旧制高校だった。
 旧制高校は全国に三十数校あり、創立順の一高(東京)から八高(名古屋)までをナンバースクールと呼び、旧制高校を出ると旧帝国大学(全国で七校)に進んだ。三中からは例年、トップの二、三人が三高(京都)、次のクラスが六高(岡山)などのナンバースクールに入り、その他の高校に合計二十数名といったところだった。陸士、海兵志望者が多い分だけ競争相手が減ったけれども、五年、四年同時卒業で我々四卒は五年生とも入試で争わねばならぬ事になり、一年分学力差があるだけ不利だった。
 前々から私は六高に行くつもりでいたが、三高へ行くべき順位の上の者が安全策をとり1ランク落として六高へ行く事にしたものだから、その煽りをくって、結局、無難な松江高校受験に決まった。この受験にまつわる面白いエピソードがある。
 父と汽車に乗って雪の松江に着き、父が勤めていた生命保険会社の支店長さんの家に泊めてもらった。父が帰ったあと、たまたま部屋で吉川英治の宮本武蔵を見つけた私は、これ幸と入試そっちのけで分厚い全8巻を滞在中ぶっ通しで読んでしまった。ただし試験に支障は無く全問正解出来た。競争率は5倍で、三中から受けた10人中、五年生、四年生各2名(私を含め)が合格。三中での実力どおりの順当な結果だった。
 ところが泊めてくれた支店長一家は、私が合格したと聞いて吃驚した。全然勉強もしないで武蔵を読みふけっていたので、絶対不合格と思い込んでいたからである。勉強しなかったのは合格する自信があったからでは全くない。それなりに準備はして来たので直前の勉強はもう必要がなく、松江では何もしないで入試に臨む予定だったのである。そこへ偶然武蔵があったので読み始めたら面白くて最後まで読んでしまった。正真正銘それだけの事なのだが、常識ではそんな受験生に真面(まとも)なのがいる筈がないから、てっきり落ちるに決まっていると思われたのだろう。

§空襲
 昭和20年(1945)、沖縄戦が始まり特攻隊が出撃、いよいよ戦場が内地に近づき、食料難がひどくて配給だけでは生きていけない世の中になり、私も闇米などの買い出しのお供をした。二月四日、阪神間に最初の空襲があり、以後度々空襲を受けるようになった。初めのうちは日本の戦闘機が迎撃したが、やがて撃墜されてあとはアメリカの自由になり、空襲で海岸の防空壕に退避していると、B29特有の地響きのような爆音が聞こえてきて、遥か上空に銀色に輝くB29の編隊飛行が見えた。対岸の大阪南部の爆撃では巨大なキノコ雲が空高く立ち昇った。三月十七日、遂に大空襲で神戸は焼け野原になり無数の炭化した焼死体が出て、私は工場から3時間かけて歩いて帰った。空襲が頻繁になり、両親と姉は昨年田舎に帰った祖母のもとに疎開、私は卒業迄叔母の家に下宿した。生真面目な従兄弟はお国の為に一足早く陸士に入学していた。

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