(17)知らぬ間の卒業式、貰えなかった卒業証書 近江 達
§知らぬ間の卒業式、貰えなかった卒業証書
 戦争末期、海岸一帯の空爆で軍需工場群が壊滅したので、神戸の裏山に近い三中に機械が運び込まれ学校工場で三年生が働いた。運動部が練習した広い西グラウンドは食料難でとっくに芋などの畠になっていた。卒業50周年記念誌で当時を辿っていると、「昭和20年3月27日、焼け跡の運動場で20回生、21回生合同卒業式挙行、卒業証書授与」とあるのを発見、吃驚した。我々21回生は空襲、校舎焼失などで卒業式も卒業証書も無かったと思っていたのだ。生徒だけではない。或る先生は「卒業式で校長が話したのは覚えているが、21回生諸君に卒業証書をやった覚えが無い」と書いてある。日にちは忘れたが、その頃私はもう神戸にいなかったのかも知れない。工場焼失後、焼け跡の片付けや防空壕掘りに行ったが、そのうちに旧制高校入学の期日が決まったので、両親の疎開先、岡山県笠岡町に帰省、暫く休養後、松江向かったからである。

§旧制松江高等学校に入学、初授業で感銘!
 入学したけれど松江高校は本来の志望ではなかったので、私は松山と松江の区別さえ曖昧で、松江について何一つ知らなかった。ともあれ、松江は宍道湖に面して風光明媚、人々は温和で地味、国鉄と出雲大社行きの電鉄だけでバスも無く人通りも疎ら、いかにも山陰らしい静かな由緒ある城下町だった。阪神間のような人手や活気とはおよそ縁遠く、何しろ灯火管制も防空演習も防空壕も無いときたから、死さえ心して四六時中空襲に備えた神戸辺りからみると、とても戦争中とは思えなかった。
 旧制高校は教育的配慮から自宅通学以外の一年生は全寮制で、近畿や中国の出身が多く、一部屋4人、私の部屋は文乙(文化乙類)の二年生と我々一年生三人だった。
 教授たちは最初の授業から生徒を君(くん)か、さんづけで呼び、その後も大人として対等、丁重に接してくれた。教授たちの終始変わらぬ紳士的態度に感銘を受けた私は、自分も将来かくありたいと思った。そして此れ迄そうして来たつもりである。
 英語、独語の教材は小説や随筆、独文法は教科書、他は講義をノートにとり、速く進むから大変だった。教授は質問には答えるが、教授の方から世話をやく事はない。誰も教育方針を語らなかったが、旧制高校教育には、「旧制高校生は紳士たるべし。自立、自律して、自主的努力で自得せよ!」という伝統的底流があったと思う。
 尾崎紅葉の小説、金色夜叉の一高生、貫一の服装を汚くした弊衣破帽、腰に手拭、太い白鼻緒の高下駄、冬は黒マントを肩に引っかけるのが旧制高校生のお洒落、いわゆる蛮カラだった。青春を謳歌し闊歩する彼らには、若者の反骨だけでなく大正、昭和初期的な自由謳歌や、俗世界を超越した(彼らの口癖だった)真理探求の姿勢誇示とか、帝大に進み次の国家社会の幹部たらんとする自負、エリート意識があった。
 だが真理は不変でも時代は変わる。工場で働き空襲まで経験した後輩から見ると、現実離れの感は否めなかった。私は大言壮語とか奇を衒う言動や気取りはいやだったが、いかにも旧制高校生らしくて好ましく、優等生でない私の性に合った。
 暫くして私は蹴球部に入った。上級生は勤労動員で殆どいなかったので、五、六人しか集まらなかったが、何とか走ったりシュートなど、ほそぼそと練習を続けた。

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