(18)敗戦、病(やまい)に倒れ帰省 近江 達
§敗戦、病(やまい)に倒れ帰省
 昭和20年8月15日(1945)、講堂に集合、正午に史上初のいわゆる玉音放送で天皇が戦争終結を告げた。くぐもった声で聞きとれないが、どうやら終戦らしいと皆ガヤガヤ言いながら夏草の茂る中を寮に帰った。敗戦という未曾有の事態に学校側も沈黙、奇妙な空白の後、これ迄秘密だった原爆と広島、長崎の全滅をはじめ、艦船、飛行機、熟練の操縦士、軍需工場、燃料など、必要な全てを失い、これ以上戦えば滅亡しかない土壇場迄追いつめられていたという真相が次第に明らかになった。戦死者には悪いが、軍部が計画した本土決戦前に降伏したから我々は犬死にせずにすんだのだ。16歳の私には正直言って敗戦故の悲哀は薄く、軍国主義が消滅して気持ちが軽くなった。
 何も騒ぎは起こらず高校生活は平穏だったが、秋になって私は不調で身体が熱っぽく、そのうちに高熱が出て寮で寝こんでしまった。最初医者は風邪だと言ったが、一週間たっても一向に治る気配がないので、このままでは危ないと帰省することになった。解熱剤で強引に熱を下げて、二年生の中西さんに付き添ってもらい駅迄30分歩いて(よく歩けたものだと思う)汽車に乗り、山陰線、伯備線、山陽線と乗り継ぎ笠岡に帰った。10時間以上かかったと思うが、当時、一家は、祖母たちが住み込んでいた銀行の裏の二階に疎開していて、やっとの思いで辿り着いた時は嬉しかった。

§療養、盗食事件、お上(かみ)と聖戦と闇米
 病気は当時若者に多かった肋膜炎だった。特効薬はなく、溜まっている胸水を何回も注射器で抜き取って解熱を待ったが、40度近い高熱が続き文字どおり寝たきりで自力ではピリッとも動けなかったから、臀部に大きな深い床ずれが出来てしまった。
 原因は明らかで、一日420グラムの配給の食事では足りないので、身体の弱い私など特に静かに生活するべきだったのに、サッカー馬鹿だから空腹を水を飲んでごまかしてまでサッカーを続けた為に、栄養失調と過労で抵抗力がなくなり発病したのだ。危うく死にかけたところを命拾いしたのは、医者だった父のお陰で感謝している。
 国民は闇で食糧を買って飢えを凌ぎ、空腹から寮では盗食事件が起きた。先に食堂に入った者が自分の分だけでなく、他人の分まで食べたので、後から来た者の食事が無くなってしまったのだ。しかも多数だったから騒ぎになり、集まった寮生全員の前で盗食者数十名が名乗り出て、彼ら同士互いに殴り合う鉄拳制裁で一件落着となった。
 ところが一方、高級軍人や要人たちは、前線で兵士が戦死、餓死している時に、料亭で芸者を揚げ酒をあおり宴会三昧、農家は闇米をどんどん売って大儲けしていたのである。聖戦と称した戦争中の不正を忘れない私は、今でも軍人や政治家、有力者といった人々を信用していない。現に有形無形の不正や不合理は随所にある。
 もう一つ教訓がある。食糧配給制度の失敗でわかるように、民間でやっていた事を政府機関や役人がやると絶対にうまくいかない。かつて怠業で大赤字だった国鉄は民間的なJRになって黒字化した。小泉首相は欠点が少なくないが、「お上の事で民間で出来る事があれば、民間に移して任せる」彼の方針は間違いなく正しいのである。
 私は病気から回復したものの、まだ復学は危険だしひどい食糧難だから、一年生の残り半年間休学し一学年遅らせて充分体力をつけた方がいいという事になった。

BACK MENU NEXT