(19)休学、引き揚げ者に間違われた話 近江 達
§休学、引き揚げ者に間違われた話
 笠岡は牡蛎の産地広島に近いので、泳いでいて岩についた牡蛎で足を切った事がある。小高い丘に登ると眼下は瀬戸内海、小島が幾つものどかに浮かび、小春日和にはキラキラ光る海を眺めながら独文法を勉強した。間借りしていた銀行の支店長さんの長男が京大医学部の大学生で、父の解剖学の洋書を借りたお返しに貸してくれたのだ。
 休学中は暇で手伝いや買い出しのお供から麦かん真田を編む内職までやった。出来上がると業者に届けるのだが、そこの人たちは初め私のことを引き揚げ者の女の子だろうと噂していた。敗戦で満州、朝鮮、中国に居た日本人は急遽帰国の途についたが、途中しばしば外国兵や現地人に襲われ略奪、暴行を受け特に女性は悲惨だった。その為に女性は皆髪を切り顔も身体もよごして汚い男に変装し、大人も子供も食うや食わずで昼間は人目につかぬ所に隠れて襲撃を避け、夜通し歩いたり貨車に乗ったりして、死に物狂いでやっと内地に生還した。想像するだけでも胸が痛むが、私がそういう髪がまだ伸びてない女性だと言うのだ。大きな麦わら帽子を斜めに小粋に被っていたのでそう見えたらしい。小さい頃からよく女の子に間違えられたものだが、当時もう16歳だったから流石にそれが最後の間違いになった。少年期は終わったのである。
 珍しく中学の同級生、竹内が旅行中に寄って話した事があった。私が四年四組総代の時、副総代だった彼はその後曲折したコースを経て京大生物学教授になった。

§ドッペル、二度目の一年生
 昭和21年春、私は旧制松江高校に戻った。二度目の一年生である。旧制高校では落第生、留年生をドッペルと呼び、理由は問わず、たとえ成績不良だろうと、人生経験に敬意を表して一目置く伝統があった。敗戦で社会は無論のこと、生徒の境遇や心情などにさまざまな波乱変動が起きたからか、その年は特にドッペルが多かった。
 一方、新入生はというと、敗戦に伴う経済逼迫で遠くからの新入生が減り地元の自宅通学生が増えたせいもあって、ドッペルから見ると大半が子供っぽく思えた。彼らの中学生の延長的雰囲気はその後も変わらず、旧制高校風には遂にならず仕舞いだった。時代は変わったのである。でも寮生は地元以外の連中でまだ幾分旧制高校生気分が残っていたので、寮の居心地はそんなに悪くなかった。
 早速蹴球部に顔を出すと、去年私と一緒に入部した者は一人も残ってなかった。二年生部員は全員私の休学後に入ったわけで、廃校になった陸士、海兵から編入試験を受けて入って来た者が多かった。一年生の新入部員は8人くらいだったと思う。
 私は病後でプレーしなかったが、上級生たちは、「経験者が入った!」と言って一目置いてくれた。経験と言っても僅か2年で面はゆいが、それでも珍重されたのは、中学蹴球部員は勉強が苦手な者が多く、入試が難関の旧制高校には滅多に入れなかったので、どこの旧制高校でも蹴球部員たちは高校入学後にサッカーを始めた素人が殆どだったからである。だから部員募集では、素人でも少しでもサッカーが出来そうな広島のようなサッカーどころとか、師範付属や京阪神の出身者が歓迎された。特に神戸一中出はサッカーが出来る筈だと必ず蹴球部がしつこく勧誘したもので、全国屈指の進学校、神戸一中は三十数校ある旧制高校蹴球部員の大供給源だったのである。

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