(20)寮歌、青春の歌 近江 達
* 寮歌、青春の歌
 旧制高校は極めて日本的なもので、戦争に到った政財界幹部の多くがその出身だった為に、戦後、民主化を目指す米国による教育改革によって、私が卒業した翌年の昭和25年(1950)に姿を消す。最高学府、帝国大学進学を前提として大正時代に設立された旧制高校の生徒には伝統的に将来各界の指導者たらんとする気概があり、その一方で青春を謳歌し若者の情熱を大いに発散、燃焼させようではないか、という熱い意思から今の学徒とは相当違う風俗、風習があった。弊衣破帽はその象徴だが、寮歌やストームもその一つで、寮歌は生徒の作詞作曲が多く大体七五調で、公私の会合や行事で歌われ、応援歌として、また運動部の選手たちが試合前に歌うこともあった。
 一高(東京)の「ああ玉杯に花受けて」、三高(京都)の「紅(くれない)燃ゆる」が有名で、「琵琶湖逍遥歌」は三高ボート部歌。四高(金沢)の「南下軍」、六高(岡山)の「北進歌」は、京都で開催される旧制高校大会(インターハイ)の戦いに向かう出陣歌である。
松江は「青春の歌」が代表的寮歌だった。その一番を記す。
 目もはろばろと桃色の 春の雲行く大空を 仰ぎ立てる若人に 三春清き花の影。

* ストーム、エネルギー発散
  直訳すると「嵐」。二人、三人から数十人が隣と肩を組んで円陣を作り、怒鳴るように歌いながら足を交互に前にあげて拍子をとって踊るのをストームと称した。歌は寮歌やデカンショ節で、松高生は豪傑節だった。公私を問わず、行事の打ち上げでもやることがあり、文化祭の夜は、篝火を囲んで踊り疲れて最後に青春の歌で終わった盛大なファイア・ストームはとても感動的だった。今考えると、そうした馬鹿みたいな大騒ぎでエネルギー発散、ストレス解消したわけで、よそ目には野蛮で顰蹙を買っただろう。しかし若者には時々我を忘れて疲れる迄思い切り騒ぐストームのような事が必要なのである。反抗期同様、生理的欲求と言ってよい。だから時代が変っても是非そういうもと機会を作るべきだ。近頃の若者集団が騒動を起こす度にそう思う。

* 復活第一回インターハイ、エースの足を狙え!
  戦争で中止していたサッカーの全国大会が敗戦の翌年、昭和21年(1946)、復活して第一回のインターハイが京都で開催された。松高蹴球部が戦前から定宿、京大病院前の播州館に着くと、待ってましたとばかり続々と先輩がやって来て、我々後輩に戦績や体験などを得意げに話した。先輩たちはそれが楽しみで来るのだ。それはいいが、決して粗暴には見えないのに大真面目で、初めに相手チームのエースを痛めつけろ!足を蹴れ!果ては、骨折させろ!とまで言うOBが何人もいて、これには面食らってしまった。事実、かつてペルー育ちの松高の名手は相手に狙われて骨折したのである。(その椎原さんは左右強シュートが武器で、私が実際に見た彼がサイドキックで蹴ったボールは非常に重く速かった。当時まだ30歳過ぎだった筈で、ドリブルや1対1を是非見たかったが、やらなかった)。旧制高校の蹴球は事ほど左様に乱暴で、今と違いOBがレフリーだから甘くて、体当たりやラフプレーはざら、試合は戦いのようなもので、格闘的プレーこそサッカーでの真剣勝負!そんな時代だったのである。

BACK MENU NEXT