(22)練習再開、楽しみは練習後の雑炊! 近江 達
§練習再開、楽しみは練習後の雑炊!
 高二になり私は病後で休んでいた蹴球部の練習を再開した。14歳から17歳までの4年間は身体も技術も伸び盛りの大切な時期だから中断は痛かった。休まずに続けていたらもっと上手になっていたに違いない。その上戦争で勤労動員の為に我々の世代は英語などの学力が劣るし、食料難で栄養不足だったので体格が悪く身長が低い。
 その春入部した新入生に神戸一中出が二人、三中出が一人いた。そのうち花岡は一中蹴球部のフルバックで即戦力になり、これでサッカー経験者が、高三の主将、京都一中蹴球部出の米原、私とで三人になった。高三にはドッペルが二人加わり、その一人は去年の主将、奥田。高二から入部した木南は剣道三段、サッカーは素人だが1対1に強くフルバックに定着した。彼はタックルの要領は剣道と同じで、相手が息を吸った瞬間がチャンスだと言う。他にも少し出来るのがいたので、松高の蹴球部としては珍しく良いメンバーが揃ったから、次ぎのインターハイは好成績が期待出来た。
 練習法などは中学とほぼ同じで時々クロカン(クロスカントリー)と言ってユニフォーム姿で町を走った。練習はさほどきつくなかったが、何しろ寮の食事が朝はコッペパン1個、昼食と夕食の米飯の量ときたら洋皿に薄く乗っているだけだから、栄養はカロリー、蛋白質、何もかも足りなかった。帰省してうちから食糧を持って来てもすぐ無くなってしまうし、近くに高校生目当ての芋やが出来たが、金がかかるのでそんなに食べに行けない。何とか安く空腹を解消出来ないものかと、生活力のある一年生の漁師が出来る花岡や八百屋の息子の森脇(三中出)が考えて、貴重な米を一寸でも長くもたせるように雑炊にすることにした。学校側も寮生の窮状を理解してくれて自炊用のカマドを十くらい作って薪も用意してくれたので随分便利になった。
 寮は学校の裏でグラウンドの横の高台にあり、毎日練習が終わるとすぐ寮に帰り夕食、一服したら炊事にかかった。鍋や飯盒の底に僅かな米粒をばらまいて、塔の立った葱や菜っ葉のくず、芋の葉や蔓、何でもいいからぶち込んで雑炊にして、それぞれ一人が飯盒一個か、鍋一個の雑炊を平らげた。これが何よりの楽しみで、何とかごまかして腹一杯になったから、栄養価は不充分でも病気にはならずにすんだ。

§視界が黄色くなったプレッシャー・トレーニング
 たまにOBが来るとトラッピング練習で絞られた。一人が前に出て、OBが出すいろんなボールに走り寄りトラップして返す。次第に疲れて動きが鈍ってくると、「ラスト10本!」で、フラフラになったあたりで終わる。私は、よそ目には自分は上手いのだと澄ましているように見えるのだそうで、そのせいか、多少出来るばっかりにもっと巧くなれと余計しごくのか、特別厳しく絞られて、最後は周りが黄色く見え地面がせり上がって来て倒れる寸前だった。昔からこうしたプレッシャー・トレーニングは広く愛用されてきた。元気な間は出来て当然、疲れ果てた時でも発揮出来るのが真の技能で、それでも優秀なら本物の優秀な選手だとされていて、へばっていても巧く出来るようになっておけば、元気なら楽々と出来る筈だと信じてきたからである。それで体力の限界迄鍛えて、同時に不撓不屈の精神力強化はかるのだが、実際はこうしたハード・トレーニングによる技能上達も選手の疲労が度を越すと不可能である。

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