(24)本大会に失敗、ベスト8 近江 達
§本大会に失敗、ベスト8
 松江高校蹴球部は大正10年創部、インターハイには大正12年の第1回から参加、第2回、第3回は大柄な選手を揃え早稲田高等学院(優勝校)と互角に戦ってベスト4に入り、メンバーのうち3人が東大蹴球部に進みその優勝に貢献した。だが昭和になってからは振るわなかったので、西日本準優勝は久しぶりの快挙だった。
 東京の決勝大会は敗戦後の食糧事情から自炊でいく事になり、我々部員は、鳥取で漁師をした花岡が入手した魚をそれぞれ両手にぶら下げ、米なども詰め込んだ大リュックを背負って、全員、まるで闇屋の買い出しみたいな格好で夜行列車に乗り込んだ。
 宿泊した東大構内、試合場の御殿下グラウンドに近い道場のような建物(山上御殿?)には、空襲で家を焼失した数世帯も住んでいた。当時はよくそういう事があったのである。本来、宿泊施設ではないので、ガランとした屋内は部屋の区切りが無く、我々も他の家族たちもお互いに丸見えで、自炊で持参した魚を焼いていると、欲しそうに見ているものだから分けてあげたりした。そんな訳でどうも落ち着かない。大会前夜だというのに、今一つ戦いに臨む気分になれなかった。これが拙かった。
 一回戦の相手は静岡高校で、いよいよ準々決勝、勝たねばならぬと思うのだが、どうにも気合が入らず、どうプレーしたのか覚えてない。静岡は巧かったが松江にピンチは無かった。だが調子が出ないままずるずるやっているうちに、たった2本のミドルシュートをキーパーが防ぐことが出来ず、0−2で呆気なく敗北、ベスト8止まりで終わってしまった。コンディショニングの失敗で、経費の都合でああなったのだろうが、自炊はいいとしても、我々だけで纏まれる気の散らない所に泊まるべきだった。

§フェアプレーの精神に欠ける広高優勝、史上最悪の肉弾戦
 不本意なまま試合が終わり、そのあと広島、成城(東京)の決勝戦を見た。旧制高校は国公立以外に私立が東京に3校、阪神間に2校あり、一貫教育の私立高校で小学生からサッカーが盛んな成城は、なかなか上手で前半優勢だった。だが後半広島が激しいプレーで攻め込み、成城ゴール前で混戦になるや否や、広高の選手たちが殺到して成城の選手を殴る蹴るの肉弾戦を敢行した。これには観衆が広島が汚いと大いに憤慨、非難の声が上がった。乱闘は時々見るけれども、今日迄あれ程ひどい光景は見た事が無い。結局、広高が優勝したけれども、もともと悪名高いチームで、私も広高戦でボールの無い所を歩いていてセンターバックに後ろから蹴られたことがある。
 真っ先に駆けつけてボクサーのように鉄拳をふるった広高の主将は、東大を出て一流紙の大の邪鬼を似て任ずる有名記者になり、或る時、サッカー誌に「精神を軽視する指導は誤りだ」と書いた。私が史上初のサッカー教育変革論を発表、従来の精神力オールマイティーの軍隊的指導に反対した頃だから、恐らくそれを否定したのだろう。
 だが、私は、あの決勝でやったフェアプレーの精神のかけらも無い所業を目撃しているものだから、彼に精神云々と攻撃されても真面目にとり合う気にはなれなかった。
 帰りに片岡の叔母さんの、獅子文六の名作、「見返りの塔」のモデルになった荻窪の少女養護施設を訪れた。少女たちのうち母屋に出入りを許されている二人は14歳くらいか品のいい美少女だった。家庭の事情か、孤児か、養護理由は聞かなかった。

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