(26)代返 近江 達
§代返
 授業は時々さぼった。悪友と宍道湖のほとりをぶらつくこともあった。ただし欠席が60日を越えると落第するので、サボリマンたちはオーバーしないようによく日数を数えて調節したものだ。英語やドイツ語の授業は当てられるから予習が必要で休めなかったが、他の授業は人のいい同級生によく代返を頼んだ。快く引き受けてくれたが、頼まれた人数が多いとか、出席者が少ない時は、ばれそうで代返は無理だった。当然、私も頼まれると代返してやった。たぶん教授の方も、代返と分かっても気がつかなかった振りをしてくれたのだと思う。授業内容は後でノートを借りて写して、解らない所を友人に教えてもらえば大抵理解出来たので、試験には差し支えなかった。
 二度目の一年生は病後で蹴球部の練習をしなかったので、あまり勉強しなくても150人中30番くらいの成績だったが、二年生になって練習を始めるとそうはいかなくなった。特にその年のインターハイは京都、東京と二度行ったのでずっと練習があった。それでも殆どの試験はうまくいったが、一科目で苦境に立たされた。それが何と動物学で、まさか生物で窮地に追い詰められようとは夢想だにしなかった事だった。

§暗記物でまさかのピンチ!
 動物学の教授は一癖ありそうな人で、生理学のような要領を得ない講義をした。試験も短く二行書くのがやっとの解答欄つき問題が10問、と一風変わっていた。当時の私はそういうのが苦手で、こんな場合もある、そうも言い切れないなどと迷い、書いたり消したり汚い答案になってしまって、一学期は10点満点でたった3点という、暗記物では考えられない点数だったからショックで、二学期の試験は念入りに準備して自分では7点は取れたつもりだった。ところが、またもや欠点だったのである。これには相当参った。反面どうも納得がいかず、採点が答えの正否に添ってないように思えてならなかったが、案の定、やがて教授が長いとか読みにくい答案が嫌いで欠点にするとか、蹴球部が睨まれているという噂が聞こえてきた。だがそれにしても、このままでは落第する。そこで三学期の試験は思い切り簡明に短く綺麗に答案を書いた。出来る事はすべてやりつくした。でも採点は向こう次第だからとても憂鬱だった。

§及落会議!
 及落会議は通算成績で4以下が二つあると落第、4が一つか5が二つ以上も及第は難しい。だから成績が悪いと教授に何とか下駄をはかせて下さいとビッテ(独語、頼む)に行く生徒もいた。会議に引っ掛かると、担任や所属運動部長の教授が弁護してくれた。私は引っ掛かったが、(生物が5点あったのか)すぐ及第になったらしい。だが蹴球部二年生の片岡と木南は落第になってしまった。(欠点だった科目は不明)
 木南は親分肌で、試合を見た賀川浩さんが注目して話しかけたくらい1対1に強かったが、落第で退学して郷里の赤穂に帰り、亡父の跡を継いで製塩業に専念した。
 片岡はとても好人物で英文解釈が得意だった。ただし理詰めの解釈でなく、意訳で何となく意味がわかるのだそうで、彼はそのまま留年した。奈良法隆寺地方の出身で、彼と一緒に郡山中を出て松高に入った者に後の薬師寺管長、松久保秀胤がいる。

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