(28)新チーム韓国人入部 近江 達
§新チーム、韓国人入部
 昨年末、主将になった私は昭和23年4月、高三になり、神戸二中と三中から新入生が一人づつ入部した。二中蹴球部でハーフだった岡本(後に住友特殊金属社長)は小柄で運動量が多く、これで神戸一中、二中、三中の蹴球部出身者が揃った。韓国人(ただし日本生まれ)も留学生的な別枠入学で三人入ったが、一人は素人ですぐに脱落、経験者二人のうち巧かった年長のSは、低姿勢でわれわれにはそんな気配など微塵も見せなかったが共産党員だった。彼は間もなく退部して後に京大で全学連で活躍、結局、残ったのは京都出身のバック、権(ゴン)だけだった。民族性の違いで、我々日本人は足をかなり痛めていても辛抱してビッコひきひき練習したが、彼らは我慢出来ない。体調不良や怪我に弱くて、一寸した事でも大袈裟に騒いで休んだのでよく覚えている。

§重かったサッカー・シューズ、ボールを手縫い、ピッチャーが入部
 当時の靴は底もポイントも厚い皮製で、先がカバー付きで二重になっていたので、100米走で2秒ぐらい遅くなった。そのくらい重かった。今は靴が傷むとすぐ買い替えるが、昔は革を縫い付けたり釘を打ったり何度も修繕して、いよいよどう仕様もなくなるまで履いたので、ますます重くなり釘の先が底に突き出たりした。よくまあ、あんなドタ靴でプレー出来たものだと思う。きっと技術にも影響したに違いない。
 それにあの頃のボールときたら革がすぐに伸びて大きくいびつになり、ただでさえ重いのが雨に濡れると石みたいになって足が痛かった。新品を買えないので、全部縫いボールだから、糸が切れると、一中仕込みの花岡が指導して、ボールを裏返しその2枚の革の針穴を合わせ、蝋を塗った糸を通した太い針2本使って、一つの針穴に右側から一本通し、左側からも一本通すという具合に縫っていって修繕した。幾つか壊れたボールをばらし、良い革だけ利用して1個ボールを作ったこともある。
 山陰はサッカーは駄目だが、校内では蹴球部は人気があった。といっても部員は十数名しかいなかったが、野球部の投手二人のうち、二年生の方が突然蹴球部に入部して来た時は驚いた。理由は知らないが、野球部からは何も文句は来なかった。サッカーは上達しなかったが、木訥で鳥取の実家から米を提供してくれたので助かった。

§六高遠征、センターバックに下がる
 新チームが何とか格好がついたので、岡山に遠征して六高と試合する事になった。丁度、うちが倉敷の生命保険会社の社宅に引っ越したので都合もよかった。
 六高のグラウンドで思いがけなく小学六年生の時の同級生だった三輪君に会った。頭が大きくて大もんじゃというあだ名で一学期の級長、私が二学期の級長だった。口頭試問で将来大将か大臣になると答えて神戸一中に進み、大柄で足は速いが、サッカーなど全然知らなかったから、六行でセンターバックをやっていたとは以外だった。(翌年彼は東大に進みセンターバックをやったので京大東大定期戦で再会した。)
 試合は神戸一中出の多い六高に完敗した。キーパーは相変わらず脆く、韓国人の権(ゴン)にはセンターバックは荷が重すぎた。守りが駄目だと攻撃どころではないので、山高定期戦に備えて、私が下がって守備の要となるセンターバックをやる事にした。

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