(30)さらば友よ! 近江 達
§さらば友よ!
 サッカーが終わり三年生の秋、大学受験準備のために寮を出て、留年した片岡の下宿に移った。当時は生徒も農家へ買い出しに行った。金が無くて絣(かすり)の着物を闇米5しょうと換えた事もある。片岡と一度電車に乗って買い出しに行った思い出がある。
 出雲平野に入ると、農家が点在していて一軒一軒がそれぞれ防風林に囲まれている。この地方独特の絵のような風景である。農家を訪れて、片岡が出雲弁で「お米を分けてごしない(ください)」と交渉して回るのだが、「そげだわにゃあ、あーましぇんわ(そうですね、ありませんわ)」などと断られて、安く売ってくれない。こっちはうんざりして「いい加減で買おう」と言っても彼は諦めない。とうとう日が暮れてしまって買わずに帰った。お人よしで気弱そうな彼があんなに粘り強いとは意外だった。
 戦後は共産党全盛で松高にもオルグが出来た。昔は、「若いのに左翼思想にかぶれない奴は馬鹿だ。でも年とってそのままの者も馬鹿だ」と言われたもので、同席してみると、今にも革命が起こりそうな勢いで、成就の暁には誰々は死刑、あの教授はシベリヤ送りだなどと盛り上がっていた。そう簡単に革命が成功するとは到底思えなかったが、善人の片岡はやがて共産党に入りサッカーも大学進学も止めてしまった。
 再開は十数年後、勤めていた病院に彼が郷里の法隆寺からやって来た。昔と変わらず気弱そうに微笑みながら、「何しか・・・してよか」といつもの奈良弁で、手術で胃を失い食べられないなどと話した。それから間もなく彼は他界した。思えばあの時彼は病身に鞭打って、懐かしい松江時代寝食を共にした私に最後の別れを告げに来たのだ!つい何げなく別れてしまったけれども、もっと話せばよかったと後悔している。

§大学受験、生涯最初で最後の計画的猛勉強!
 子供の頃は軍艦や船の美しさが好きで造船技師になりたかったが、勤労動員で工場がいやになり、医者志望に戻った。京大に決めたのは松高蹴球部から浪人の大谷(後に山口大学整形教授)、恒松(後に鳥取大学内科教授)、現役で河端と三人入ったのと、インターハイで馴染んだ京大が私に合っているような気がしたからである。
 旧制高校は受験の補習どころか進学相談さえ殆ど無く、塾も予備校もないから全て自分で準備する。私は河端の話を覚えていたので参考にして、夏休みに微分積分など数学、秋は化学、冬休みから物理、英語は勉強無し、ドイツ語は単語暗記だけにした。医学部志望者は生物の授業を受けるのだが、私は二年の動物学で懲りたから受けなかった。独学用の参考書を探していると、運よく冬休みに、空襲から焼け残った岡山の古本屋で素晴らしいのが見つかったので、入試直前、一ヶ月間ぶっ通しで暗記した。
 こうして8ヵ月間、猛勉強して計画どおり生まれて初めて分厚い参考書を何冊もものにして準備完了。我ながらよくやった。といっても絶対合格するぞと必死で頑張ったのではない。私の癖で、計画を次々に完遂していくのが結構面白かったのだ。
入試当日、例のとおり筆記用具だけで試験場に入った。受験生たちはそれぞれ直前迄参考書などを調べたり話し合ったりしていたが、その中に要点などを聞こえよがしにとうとうまくし立てている受験生がいて、人だかりがしていた。偉い奴がいるもんだと素直に感心したが、意外にも、四月、新入生の中に彼の姿は無かった。

BACK MENU NEXT