(32)京都大学医学部入学、自由な校風 近江 達
§京都大学医学部入学、自由な校風
 昭和24年4月(1949)、京大医学部入学。松高から私以外に浪人2名、現役2名。新入生110名のうち、浪人や他校を退学して受け直した年長者がかなりいて、一年休学した20歳の私でも若い方だった。四年制で、二年間基礎医学(解剖学、生理学、医化学など)、後の二年間が医者らしい臨床医学(内科、外科など)教育になる。
 全て必修で、講義と黒板の図などをノートにとる為に真面目な学生たちは早くから階段教室の前の方に座った。後ろの小高い席は私のように不熱心な連中で、番狂わせ合格の私以下と思えるような人たちも結構いた。無論、秀才然とした学生もいて、ドラマの白い巨塔のように将来教授になると聞こえよがしに公言する者が三、四人いた。
 朝九時から講義で午後三時に終わってから農学部グラウンドへサッカーの練習に行くのだが、市電の停留所にして四つ目で相当距離があり歩くだけで疲れる。これには参った。でも幸い学費稼ぎでノートからプリントを作るグループが出来て、二回生からは期末にそれを買えば講義に出なくてもよくなったので大助かりだった。私などプリントのお陰で卒業出来たようなものである。(京大は一年生を一回生と言う。)
 教授たちは貫禄充分で重厚な講義をした。ただ生理学教授だけがいい年をして共産ボーイズがどうのこうのと漫談ばかりで、学生は面白いより白けてしまった。脳解剖学の世界的権威、平沢教授は手ぶらで、まる二時間、数多い脳と末梢を結ぶ伝導路などの実に精密な図を黒板に描いて、学生と対等に暖かく説くように講義した。内臓解剖学の堀井教授は歩き回りながら最初に、「大学生になったら、これ迄の学説とか常本当にそうなのかと疑ってみる事が大切だ」と語り、とても感銘を受けた。
京大は、欧米に追いつくという国家目的に沿う東大とは違う大学を、という趣旨で創立された。喧伝を好まず地味な京大は、「自発自得、創造性、開拓者精神、ナンバーワンよりも個性的なオンリーワンになれ!」などが伝統的モットーである。だが未熟な大学生の私には他人事のようだった。まさか二十数年後、少年サッカーとその教育で、自分が京大の伝統そのままに、自発自得、自由や個性、創造性などの育成、発揮などの必要性を謳い説くパイオニアになろうとは知る由もなかったのである。

§試験場でじたばたしないのは、母からの遺伝
解剖学実習は大変だが面白かった。フォルマリン漬けの死体をかの杉田玄白のように解剖して、解剖図と照合し身体の構造、筋肉、神経や胃腸、肺、心臓などの内臓とか脳がどうなっているか調べ確認していく。初めは気味悪いがすぐ慣れて、死体の横で弁当を食べられるようになった。一通り終わると実物を材料に口頭試問を受けた。
解剖学の筆記試験の方は量が厖大で準備が大変だった。例によって筆記具だけで試験に臨んだが、実はこれが母からの遺伝だという事に最近気づいた。母は晩年三味線を弾いた。発表会当日、皆は出番直前迄稽古しているのに母は何もしない。皆がいぶかったが、私と同じで、前日に準備がすんだから、もう直前稽古などしなかった。心配性の母らしくないみたいだが、自分の事だから自分さえ納得出来たらそれでよかったのである。しかし子供の事になるとそうはいかない。いつも気掛かりで心配できりがない。私に対するひどい心配性は、母親故の心配し過ぎだったわけである。

BACK MENU NEXT