(33)新制大学誕生で旧制、新制共存 近江 達
§新制大学誕生で旧制、新制共存
 大学生になって旧制松江高校の白線三本の破れ帽子は角帽に変わり、腰の手拭が消え下駄は革靴になったが、この昭和24年(1949)には大学自体も変わった。敗戦の為、アメリカの指令で新制大学が誕生し、旧制大学は5年後に廃止と決まったのである。戦前からの旧制度は中学5年(4年も可)、高校3年、大学3年(医学部4年)、大学入学は最年少が20歳(19歳も可)、卒業23歳(22歳も可)。それが、新制度(現在の制度)では中学3年、高校3年、大学4年で、大学最年少入学が18歳、卒業22歳と若くなる。移行期の為、最初の新制大学一回生は新制高校卒業生と旧制高校一年終了者の混成になった。こうして最後の旧制京大生卒業まで、旧制と新制の京大が共存する事になり、新制一回生は新設された京大宇治分校で教養課程の授業が始まった。

§万年部員不足、練習不足の京大蹴球部
 四月、京大蹴球部に入った一回生は旧制7名、後に一、二歳若い新制4名が加わった。その後、在籍総数、約20名になったが、実際に練習に出て来る者は少なく、上級生の出席者と併せても10名くらいで、20人を超える日はなかった。部員が少ないとは聞いていたが、ひどいものだった。というのは部員は学部がいろいろで、文系の経済学部や法学部はいいが、理系の理学部、工学部などは実験、実習で練習に出にくい。そもそも勉学が目的で京大に入ったのでサッカーは二の次にならざるを得なかった。しかも代々、何故か理系が多かったから、創部以来ずっと部員不足、練習不足が続き、いよいよ困ると、主将やマネージャーが練習に来ていない選手の所に行って、「次ぎの試合に出てくれませんか」と頼んだりした。他校では絶対あり得ない事だろう。それに、まだ食糧事情が悪く配給制、外食券制でいつも空腹だから勉学だけで精一杯、自宅通学者はともかく、下宿だとサッカーまでやるのは本当に大変だったのである。
 練習を休んでも叱責や罰則は無かった。京大生ともなれば、出欠は本人が自らの意志で決める事だから、必要な場合に話し合う程度で、出席も強制されなかった。
 他の大学、特に私立大学は体育学部にサッカー部全員を入れたり、夕方以後に授業がある二部に推薦入学で優秀選手を集めたりして、日中にたっぷり練習した。そうでなくてもサッカーの強い所は文系の学校が殆どで、初めからサッカーをやる為に入学して充分練習するのが普通だったから、京大は何もかも大違いだったのである。

§京大蹴球部略史
 京大蹴球部は、東大蹴球部にいた松江高校蹴球部OBが京大にいる松江OBに「京大も蹴球部を作れ、試合しよう」と言ったのがきっかけで発足。大正14年春、京都で当時関東一の東大を2−1で破り、秋に東京で1−1で引き分け、体育会運動部として公認された。旧制松高蹴球部は京大蹴球部と昔から縁があったのである。部員不足、練習不足でも戦前は強かった。関西学生一部リーグで関学、関大などに勝ち昭和2、5、7、8、9、12、16年に優勝。記録に初期は長蹴、出足、厳しい守り、後にショートパスとある。個人では香川(昭4、左インナー、六高)、神技と謳われた金沢(昭10、ゴールキーパー、成城)が日本代表で極東オリンピックに出場した。

BACK MENU NEXT