(34)京大農学部グラウンド 近江 達
§京大農学部グラウンド
練習のある農学部グラウンドは京大の東北端で西南端の医学部から相当距離がある。大学構内はとても広くて自転車に乗ると楽なのだが、当時は高価で買おうとも思わなかった。ベルリン五輪三段跳びで優勝した田島直人ゆかりの地で、一周500米の日本陸上競技連盟公認トラックがあり、内側のフィールドをラグビー部と蹴球部が半分づつ使った。学外からもよく陸上の練習に来て、当時の日本記録保持者、三段飛びの長谷川、女子短距離の山内、稲葉、南部敦子などが時折り姿を見せると辺りが華やいだ。
 蹴球部の練習は放課後、駆け足、スタート、ダッシュ、ターンから、サークルでサイドキック・パス、トラップしてパス、ラウンド・キック、シュート。日によって1対1、3対2、二人のパスワークなどをやって、最後は攻撃対守備のコンビネーション。駆け足数周で終わり。試合の無い休日は大抵練習なし。三学期は休みだった。

§京大蹴球部のリーダーたち(昭和24年度)
 学業優先、練習不足、選手不足など、他校より極めて不利なサッカー環境にも拘わらず、戦前、京大は昭和2年から7度、関西一位になった。その後衰えたとはいえ戦後暫くは比較的強かった。まだサッカー人口が少なく、旧制高校からサッカーを始めても通用する低レベルの時代だったのと、部員に旧制高校蹴球部の主将や名を知られた優秀選手が少なくなかったお陰である。(ただし一方、残念な事に、日本代表レベルの広高の名センターバックのようにどうしても入部しない好選手もいた。)
 深山(みやま)主将は広高出身で在学中、兵役に服し敗戦で復学。かつて強豪朝鮮普成中と引き分け日本一になった神戸一中のメンバーで、重心が低く身のこなしなど、いかにも一流の本格派バックらしく、プレーが絵になった。かつての仲間、日本代表、関学の鴇田や関学の名手、和田との対戦から工夫したのか、快足でなかった彼は、タックルに続いてすぐさまターンして追撃出来る独自の当たり方を編み出していた。精悍で身体を張ってプレーしたが、部員には紳士的で決して声を荒げることはなかった。
 私が二回生でバックをやっていた頃、「達ちゃんのバックも怪しいものだから」とサラッと言った。名バックから見れば当然だろうと聞き流してしまったが、あの時に教わっておけば、後日コーチになってから役立ったのに惜しい事をした。
 独眼流の恒藤(つねふじ)さんも在学中に兵役、復学。サッカーは暁星中時代遊びでやっただけ。京大に入ってから本式に始め、隻眼というハンディーを持つ素人にも拘わらず数年後、関西学生選抜に出場した。これは前代未聞で、よほど天性優れたものがあったに違いない。柔らかさ、器用さは無いが、得意なスクリーン、ボールキープなど、堅実で模範的なプレーはいつも冷静で安定していた。ずっと右のインナーで自陣内からボールをつないで、即座に或いは一旦キープしてから、有効適切な攻撃コースを判断選択して、ボールを右に左に蹴り分ける典型的ゲームメイク振りは、高校時代、さらに京大でも左のインナーに回る事があった私には良い参考になった。彼も、「近江が入るとボールがよくまわる」、と私を割合買ってくれた。後に日本一を続けた田辺製薬チームで鴇田、賀川兄、宮田など日本代表たちとプレー。現在、京大OB会々長で温厚誠実、80歳を越えた今も私と一緒に元気でプレーしている。

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