(38)マルテの手記(リルケ) 近江 達
§マルテの手記(リルケ)
 戦争中、母の郷里笠岡に疎開した一家は、松高在学中に倉敷、岡山と移り、京大二回生になる時、京都に近い枚方(ひらかた)に引っ越した。受験で生涯ただ一度の猛勉強に明け暮れた思い出の地、倉敷は今観光で賑わっているが、あの頃は人通りがなく、蔵作りの白壁がひそやかに控え柳並木に堀川が巡るこざっぱりした町だった。時折り大原美術館を訪れたが、この名前を見るとあの痛ましい事件の記憶が蘇ってくる。
 松高から現役で合格した大原君は出席番号が私の前になったので親しくなった京大に入ってから出来た友人だった。山陰生まれでおとなしく、私が弾くのを見てマンドリンを始めたり互いに下宿に行き来して穏やかな交際を続けていた。ところがその彼が一回生の秋、突然、鉄道自殺を遂げてしまったのだ。綺麗に片付いた主(あるじ)亡き部屋の机上には私が彼に貸したマルテの手記が残されていた。知る人ぞ知るこのリルケの透徹した作品には、読むと死に憧れるという俗説があるが、無論貸したのは名作故で、それ以外は頭に無かった。講義にも出ていたし、死を選びそうな気配など毛頭感じられず、結局、自殺の理由は不明だった。駆けつけた二人の兄さんも彼のように純真というか良心的な印象で、牧師の三男という生い立ちも或いは彼の死と何か関係があったのだろうか、ふとそんな気がした。淋しそうだった横顔が眼に浮かぶ。

§同志社のエース、ウイングと対戦
 枚方から自宅通学になって充分食事が出来るし楽になった。医学部で蹴球部と言うと、「忙しいのに!」と必ず言われたが、昔から京大では医学部の部員が珍しくなかった。実験や実習など必要な所さえ出ておけば、試験は講義のプリントで対応出来るので支障はなかった。(数年後、医学部だけのサッカー部が出来て今も続いている。)
 旧制松高ではセンターバック、今度は左が出来る者がいない為に左フルバックである。相手の右ウイングにはチャンスメーカーや点取り屋が少なくない。でも私はウイングの経験があるので、相手の狙い、やり口などが解るから対応は難しくなかった。
 その頃、同志社が賀川浩さん(神戸一中、神戸経済大出、日本代表)の指導でめきめき力をつけて来た。両ウイングが切り札で、一人は長身で軽快、一人はずんぐりした戦車タイプ、粘っこいドリブルでタックルに強い。どちらも快速、突破力、得点力があったが、私は右のバックもやったので、左右のウイングと対戦してどちらもほぼ完封し、春の定期戦は3−1、秋も1−0で勝った。そのシーズン、同志社はリーグ二部の首位になり、入替戦で一部最下位の阪大を破って念願の一部昇格を果たした。

§往年の名キーパー金澤さんの神技!
 二回生の時のチームはレギュラーに新制が増え、センターバック岡川(神戸一中、四高出、新制二回生)を中心に無難な守備陣で、社会人の強豪大阪ガスに大勝、二、三回試合した紫光クラブにも負けなしと好調。夏休みに松高同期の河村の世話で懐かしい出雲大社町で合宿した。戦前、京大三連覇の名キーパー金澤さん(昭和10年卒、極東オリンピック日本代表)が来られて、かつてマスコミが神技と讃えたプレーを披露、現役の日本代表を遥かに凌ぐ想像を絶する巧技に驚嘆、感動してしまった。

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