(45)§学生スポーツについての疑問、学業優先こそ真の学生サッカー 近江 達
§学生スポーツについての疑問、学業優先こそ真の学生サッカー
 昭和27年(1952)、京大初の二部チーム主将になった私の使命は一部復帰だった。戦後、関西学生リーグは加盟チームが増えて強い順で一番上の一部から五部まであり、各部は6から8チームだった。大正14年(1925)の創部以来一部で、しかも優勝7度、栄光のエリート、京都帝国大学卒の先輩たちにとって、敗戦で米国の命令による新制大学への切替えという止むを得ぬ事情があったにせよ、京大が転落して二部にいる事は耐え難い屈辱だったから、名門京大蹴球部の一部復活はいわば至上命令だった。
 復帰するには二部で優勝して入替戦で勝たねばならない。主将としてはテレビの青春ドラマよろしく檄を飛ばし全部員が絶対一部に上がるぞ!と誓って猛練習を始めたいところだが、いかんせん、京大生気質か一向に盛り上がらず、練習に熱が入るでもなく、二部になって白けたのか人数も減り気味だった。無論、私自身はベストを尽くす覚悟だったが、現実はそんな具合だし、転落の要因だった他校よりも不利な環境や新制切替えの影響もそのままだから、復帰実現が極めて難しい事もよくわかっていた。
 例えばサッカーの一流校は優先入学やセレクションで好選手を集めて昼間たっぷり練習する。学業優先、余暇にサッカー、本来の学生スポーツの京大では絶対にない事で、この差は大きい。そもそも彼らは成り立ちから違う。サッカーが目的で入学、サッカーに専念し、収入が無いだけでプロまがい、学生とは名ばかりのノンアマチュアで、学生スポーツの正道から外れているにも拘わらず、世間では強豪故に学生サッカーの主流と認められていた。それも体育専門ならともかく一般学生だからどうかと思う。腹に据えかねた私は内心、それなら我々はいっそ、京大こそ本来の学生スポーツなのだと開き直り、出来る範囲でベストを尽くせばそれでよいでないか!及ばずとも彼らはプロ同然、恥じる事はないと思っていた。だからいくらOBの切望でも、復帰の為に部員たちに学業に差し支えるような猛練習をさせる気はなかった。また、もしそうしていたら、サッカーの為に京大に入ったのではないから退部者が続出しただろう。

§相変わらずだった練習法
 昨年迄は一部だから芝生の西宮球技場で試合したが、二部の今年はそこで試合させてもらえず、裏手の土のサブグラウンドになった。二部落ちで愛想をつかしたのか、先輩たちもあまり来なくなった。世話好きの新監督唐原さん(神戸一中、松山高出)は自由放任だったが、夏休み前に突然、恒藤先輩に練習計画や方法の報告が無いと叱られた。大学運動部はOBと現役との結び付きが固い。現役マネージャーがOBに大会予定や試合結果などを報告していたが、練習計画などの報告は引継ぎもなく念頭に無かった。それに練習法などこれ迄と同じで報告を要する程の事とは思えなかった。
 スポーツマンは大抵自分がやってきたのが正しいトレーニングだと思い込んでいて、人にもやらせたがる。私も大学迄同じような練習ばかりで、そんなものだと思っていた。ただし先輩にもっと頭を使ってプレーしろ、考えろとよく言われたけれども、どうしたらいいのかわからなかった。細かく教えないのが京大の伝統で、自分でやれと言うのだ。やっと十数年後に開眼して枚方FCでプレーや練習法を工夫するようになるのだが、当時の私は、お恥ずかしい話だが、その方には殆ど頭が働かなかった。

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