(50)§その後の京大蹴球部、衰退から戦後全盛期を経て現在二部 近江 達
§その後の京大蹴球部、衰退から戦後全盛期を経て現在二部
 二部に落ちたがまだ一部時代の名残があった昭和27年、接戦の末ライバル京学大に先を越され一部復帰のチャンスを逸した京大はそのあと衰退し、31年頃には遂に試合に11人揃いかねてあわや廃部寸前となったが、この危機に部員たちは学内経験者を探し求め窮状を訴えて入部するよう熱心に説得して回り、熱意に打たれたのか幸い好選手の入部に成功しチームも一気に勢いづいて、33年念願の一部復帰を果たす事が出来た。
 この機会にコーチも名ばかりの京大OBでなく、初めて東京教育大卒の瀬戸進氏に依頼、グラウンドにも照明がつき日没後も京大蹴球部史上初の本格的練習、体力強化に励んだのが功を奏して、王者関学を2度破り、4年連続一部三位、戦後の全盛期を画した。だがこの8年間、定期戦は東大戦1勝4分3敗、同大戦2勝2分4敗と私の現役成績(東大戦1勝1分1敗、同大戦4勝2敗)にも及ばず、41年二部に降格。その後、一部と三部の間を上下し、現在二部にいる。時の流れか女性マネージャー付きで、練習時部員が少ない日でも30人はいるので驚く。東大は半世紀前、私の現役時代でさえ大勢部員がいて不思議だったが、京大生も東大生なみに変わったのだろうか?

§主将としての回顧、東大戦異聞
 私は主将として部員各自の能力と個性を自由に思う存分発揮させて、チームは全力を出しきる事が出来た。だが練習不足はどう仕様もなく一部復帰は成らなかった。
 思い出に残る試合が幾つかあるが、中でも最後の東大戦はチーム一丸となって完勝した最高の試合だった。東大側にとっても豪雨と不本意な敗北故に忘れ難い試合だったようで、選手だった浅見氏(本邦初の国際審判員)は27年後の東大京大定期戦第30回記念ブログラムで、「七月には珍しい暴風雨の中で、キーパーが飛び出してがら空きの東大ゴールに、クリアしようと必死で戻る私をあざ笑うかのように、水に浮かんだボールが波に揺れながら流れ込んでいったシーンを今でもはっきり思い起こす事が出来る。当然勝てると思っていたのに」と悔しがり、岡野氏も「当然勝つつもりで乗り込んだが1点差で破れた。今でも覚えているのは、試合当日、物凄い雨で京大の決勝点がゴール前に浮かんだボールが、追いかける為に起こった波でゴールに入ってしまった事だ」と書いているが、事実と違う。第一、雨は一日中降ったのではない。後半開始迄は雨どころか晴天で、しかも2−1と京大リードで前半が終わったのである。後半開始後、突然豪雨が襲い一面水浸しになったが、20分間だけでピタリと止んだ。水はけが良いので急速に水がひき方々に水溜まりが残ったところで、スペースに走り出た京大左ウイング広野がドリブル、前進したキーパーをかわし強シュート。ボールはライナーでゴール直前の水溜まりへ、相当球速があったので着水後もその勢いでゴールインした。決して波で入ったのではない。決勝点でなく、だめ押し追加点だった。
 東大側があんな悪条件では試合と言えないとまで言い張るのは、彼らが全盛期に入りつつある強チームで、その上昨年楽勝した相手の京大は一部、今回は二部、どう転んでも勝つ筈だったからである。あのあと彼らは関東一部で覇権を争い大学選手権で優勝して、京大の定期戦大敗が三年間続いた。それだけに二部の京大に負けた事が何とも悔しくてたまらず、豪雨さえ無ければと悪条件にかこつけたいのだろう。

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