(51)§フォワードとしての反省、自称二流のA 近江 達
§フォワードとしての反省、自称二流のA
 私の場合、中学から大学卒業まで12年間のうち、プレーしたのは病気と戦争で中断した為に8年間しかないが、フォワードが4年(今の攻撃的中盤に当たるインナーを含む)、ハーフ1年(守備的中盤)、フルバックが3年と、キーパー以外左右全ポジションでプレーした。この珍しい体験は後年大いに役立った。自分では前記のようにバックが良かったと思うが、人にはよくバックよりもフォワード向きだと言われた。
 1対1が面白くサッカーを始めたので、ドリブルやフェイントは得意だったが、試合ではチームプレーに徹して、持ち過ぎはなくいつも早めにボールを捌いた。もっとドリブルしておけばきっと上手くなれたのに惜しい事をした。戦術面では或る先輩にどこでも見えているだろうと言われた事があったが、まあ見えた方だろう。
 ウイングは右が得意。インナーはいろんな知恵が必要で難しいが、得点につながるパス、相手は取れないが味方は取れそうなきわどいパス、相手守備陣が困るようなパスなどを出すのが得意で、チャンスメイクには自信があった。右では得点も出来た。
 フォロー、サポート、マーク、カバーと攻守の義務は忠実に実行したが、速攻一点張りの時代で自陣から1、2本のパスで相手陣内に攻め込むので、攻守を素早く切替え遅れないように往復するのが精一杯だった。その上、トップを追い越したり斜めに流れたりして、突破や崩しのパスをもらうプレーまでやってのける体力はなかった。
 遠慮する為に積極性が乏しく実力を出せなかった事は性格とはいえ未だに痛恨の極みである。そのくせ、バックの時見かけで損したように、フォワードでも、そんな気は全然ないのにスタンドプレーとか格好つけてるとか言われたのだから割に合わない。
 当時はテレビもサッカー誌も無い。京大がスポーツ紙にのる事は殆どなく、同志社や京学大の選手が私の名前を知っていた程度で、関西選抜や優秀選手の講習会には呼ばれなかった。自分では技術は少しまし、戦術は良かったと思う。点取りやとか鋭く突破するタイプではなくチャンスメーカーで、二流のAクラスのつもりだった。

§現役時代の業績
 8年間の現役時代を振り返って会心のプレーを挙げると、次のようになる。

1. 昭和22年夏(1947)、旧制松江高校二年生、18歳、左インナーでチャンスメイク、私のパスから全得点が生まれて、西日本インターハイ準優勝。

2.
昭和24年夏(1949)、戦後第一回東大定期戦に京大一回生、20歳、左ウイングで右からのセンタリングをゴール左隅を狙うと見せて右隅へ歴史的初得点。1−0で終わりかけたが、昨年関東一位の東大必死の反撃で後半終了寸前押し込まれて1−1。

3. 昭和24年秋、京大同大定期戦10−0で快勝、京大一回生、20歳、左インナー、初ハット・トリック。(センタリングをショート、ミドル、ループ・シュート)

4. 昭和25年秋(1950)、関西一部リーグ。二回生、21歳、左フルバックで、有名な巧技快足の日本代表関学右ウイング木村現を前半、上手く封じて仕事をさせなかった。

5. 昭和27年夏(1952)、戦後第三回京大東大定期戦3−1、四回生、23歳、主将の私が計画した相手最終ラインおびき出し作戦が成功して東大戦に京大初勝利。センター・バックとして東大センター・フォワード、日本代表の名手岡野を完封。

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