(52)§私が外科医になったわけ 近江 達
§私が外科医になったわけ
 昭和28年(1953)3月に医学部を卒業、1年間のインターン後、翌29年国家試験に合格、25歳で医師免許を得た。専門科目を決める事になったが、内科外科のどちらかにしようと思った。誰が見ても私は内科医向きである。しかし初対面でのとっつきが悪く親しみにくい。おまけに喋るのが苦手なので対人関係、コミュニケーションが大切な内科医としてはどうかと思う。その点外科はそれよりも技術だ。内科は独学出来るが外科の技術は教わらないと修得出来ない。そんなわけで外科医らしくないが外科を選んだ。最近外科は人気が無いが、当時はそうでもなく同級生が30名人局した。

§修行、清潔か不潔か、氷柱と汗
 外科では新人は傷の処置、縫合、糸結びから始める。手術の基本は切る、縫う、結ぶで、糸結びは縫った糸を結ぶのと、出血箇所をくくる結さつとがある。何でもない事のようだが、糸が緩むと傷が開く。止血箇所や血管の結さつ糸が外れると大出血になりかねないので、早くしっかりと結べるように練習した。手術では先ず助手をやり、やがて助手を続ける一方で、主治医として上級医に指導されながら初級の手術、皮膚腫瘍や虫垂炎(いわゆる盲腸)、ヘルニアなどのオペ(手術)を執刀させてもらった。
 大学病院では胃腸の手術以上の大きな手術は、教授、助教授か講師が術者で助手が二、三人つく。新人は三人目の助手で殆ど仕事は無くてまあ見学だが、術者同様、爪を切り手を洗い消毒して、消毒した清潔な帽子、マスク、手術衣とゴム手袋をつける。手術中はずっとそのままで、何時間かかろうと手術終了迄は消毒したものしか触ってはいけない。もし消毒していないものに一寸でも触れたら、不潔になったので感染の恐れがあり、すぐさま全部脱ぎ捨てて手洗いからやり直さねばならないから大変だ。
 外科で言う清潔とは見た目ではなく消毒済みだと言う事である。それ以外は全て不潔と称して、感染や化膿、手術失敗につながるから非常に厳しく区別した。
 そうして帽子とマスクで眼だけ出していると、私の睫(まつげ)が長いのが評判になり看護婦さんがかわるがわる見に来た。当時冷房はなく夏の手術室は窓をしめ扇風機は埃が立って使えないので、大きな氷柱を何本も立てて手術をした。暑くて汗をかくが自分では拭けない。不潔になるからで汗は看護婦さんが拭いてくれる。ところが私はひどい汗かきだから助手で手術につくと初めから汗だくで、看護婦さんはいつも術者の偉い先生や第一助手よりも私の流れる汗をしょっちゅう拭く羽目になってしまう。新米で何もしないのに一番大仕事をしているみたいで、何とも恥ずかしくて閉口した。

§野蛮だった昔の外科医
 戦前の外科は徒弟制度で、昭和20年代でも偉い先生は手術中に助手や看護婦が気に入らないと、立腹して交代させる事があった。吃驚するような話だが、少数だが、鉗子などで助手の手を叩く、手術台の下で蹴る、手術器具を投げるといった野蛮な先生もいて、私が入局した頃でも、額の青い剃り込みで有名な恐い脳外科の助教授はメスの切れ味が悪いとメスを投げた。これには看護婦たちもたまりかねて、「危ないからメスだけは投げるのを止めてくれ」と抗議した。彼は後に或る大学の教授になった。

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