(53)抽選で地方病院に赴任、ペペルモコの靴 近江 達
§抽選で地方病院に赴任、ペペルモコの靴
 基本的な事を身につけると、29年の秋から各地の京大系の日赤、国公立病院などへ赴任が始まった。そこで下級医員として二、三年経験を積んでから京大外科教室に戻りテーマを貰って研究し、数年間の成果をまとめて論文を提出、審査に合格すると学位を貰って医学博士になる。それが伝統的システムだった。赴任は希望者が無ければ抽選で当たった者が行く。私は抽選で或る地方病院に赴任する事になった。そこの内科には学生時代、講義プリントを作っていた同期の畑先生が既に医員で赴任していた。
 赴任に先立ち初めて病院に挨拶に行った日に、玄関に脱いでおいた靴を盗まれた。フランス名画、望郷でモロッコの迷路の町カスパの主人公ペペルモコに扮したジャン・ギャバンが履いていた真ん中に縦線が入った靴が気に入って、大学を卒業して初めてわざわざ同じデザインで誂えた靴だった。我ながら面白い注文をしたもので、幸い犯人が捕まって靴は戻ってきたが、あとから思えばそれがケチの付き始めだった。
 そこは入院患者200名くらい、都会の病院に比べれば小さいが、奥地から患者が運ばれてくる事もある地方医療の中心的な市民病院だった。林外科医長は京大外科教室出身だが卒業は東京の私立医専で、敗戦直後、復員者が大勢教室に入ったどさくさまぎれに入り込んだらしい。本来彼のような傍系の医長の下には戦争中軍医不足で増設された京大臨時付属医専出が行くのだが、医専廃止で欠員を医専出で補充出来なくなり医学部出の私が行く羽目になったわけである。おまけに教室では一段落ちる毛色の変わった林医長は頗る評判が悪く、手術出来るのかといぶかる声さえあった。しかし私は新人なものでそれほど不評とは露知らず、30年2月に赴任した。あの抽選が文字どおりとんでもない貧乏くじだったとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。

§出世しないと言われた修行時代

 下ぶくれで眼鏡の医長は五十歳前、ずんぐりした刈り上げの遊び人風だった。世界的な腹部内蔵外科の大家、京大の田村助教授と友達づきあいが自慢で、それにかこつけて如何にも自分も京大出の手術の名人のような口ぶりで田舎の人々を信用させ、人気とりに京都での放蕩話を得意げに吹聴した。だが調子に乗って他の先生や病院、開業医の悪口まで公言するものだから敵をいっぱい作った。腕自慢で手術は下手ではないが習い覚えた手術しかしない。骨折患者は断り勉強は一切せず、自分が大切と思う患者だけ診て他は私に回した。お陰で盲腸は無論のこと、胃の3分の2を取る胃切除術や胆石手術などもやらせてもらった。今は心臓手術とかもっと大がかりな手術があるが、当時は胃切除が大手術で、それが出来れば一人前の外科医みたいな時代だったので、卒業後2年目、26歳でやった私は同級生の中では早い方で羨ましがられた。
 医長は初め調子がよく、私が高英男(シャンソン歌手)に似ているとはしゃいで、手際が良い、将来講師に成る、僕が見込んだ者は必ず出世するなどと盛んに持ち上げた。医専出の前任者は赴任後すぐに彼と意気投合して遊び回ったそうだが、私は人と馴染みにくい性格の上に、医長を尊敬出来なかったので親しくなる気は無かった。いつ迄経ってもつかず離れずだから、気を悪くした彼はやがて私に向かって、可愛げがない、好かれない、出世しないなどと言い始め、飲むと必ずからむようになった。

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