(57)皮膚科特研西占助教授と西方さんに感謝! 近江 達
§皮膚科特研西占助教授と西方さんに感謝!
 研究に動物を使うと動物の飼育が必要で、欧米ではちゃんと飼育設備があり世話人がいる。ところが昔の外科研究室にそんなものはない。代々の研究生たちが研究室内や廊下で動物を飼って餌をやり世話したので、もともと狭い上にとても汚く不潔だった。幸い私は皮科特研で西方さんが実験用の兎の飼育から実験の手伝いまでこまめにしてくれたのでそんな苦労を全くしないですんだ。今思い出すと随分お世話になったもので本当に有り難かった。改めて西方さんに心から深く感謝の意を表したい。
 西占助教授(後に京大教授)は難病とされたハンセン氏病研究で有名だった。この病原菌は感染力が弱いが、先生はそれが神経内に入るところを初めて電顕写真にとって発表した。神戸一中、三高出身、おだやかで頭脳明晰、何をやっても真っ先に要領よくコツをつかみ、明るく純真、善意の人で誰にでも親切、無学な私と対等に討論してくれていろいろ教えてくれた。時折バイオリンを弾いた。研究者としても人間的にも素晴らしい先生で、いろんな面で教わるところがあり大いに感化された。
 先生は外国の学術誌に投稿するのに少し書き方が違う英文の論文を二つ書いて暫く寝かせておき、何日も経ってから改めて見直して良い方を投稿した。抄録と写真の説明文は面白くて要点がわかるように書く。読者は本文はあまり読んでくれない。大抵、写真を見て説明と抄録を読むだけだからと言われた。これには敬服した。万事こんな調子で頭のいい人は違うとよく感心したものだ。以来、私も文章を書いたら暫く寝かせて置く事にした。少し経ってフレッシュになってから見直すと、新たな発見や訂正加筆すべきところが見つかったり、視点や考え方が変わったりして、これを繰り返すと次第に良い作品に引き締まっていく。この自伝もそうやって書いている。

§30歳で学位取得、昭和34年1月(1959)
 研究は案外捗り1年後には一段落し外科の研究会で発表したところ、皆初めて見るスライドの大きな電顕写真に圧倒されたのか好評だったので、論文を書きあげて木村助教授に提出した。そこ迄はよかったが数日後に行くと、青柳教授に渡しておいたから行って来いと言われて、しまった!と思った。実はまだ最終原稿ではなく、木村先生が訂正して返してくれたら、完成して教授に出すつもりだった。まさかいきなり教授迄行ってしまうとは思ってなかったのだ!果たして教授は研究内容については何も触れなかったが、秋田訛りで、文章が短くプツンプツンと切れる。もっと読み易いように書け、と言われて泣きそうになった。科学論文は事実と説明や解釈などを単純明快に書くものと思っていたが、そう言えば随筆家で通っている教授の文章はよく練られた長文だから、早速教授のような文体に書き直して提出するとすんなり合格した。京大外科教室発行の主に研究論文を載せる外科宝函という雑誌に英文抄録をつけて掲載してもらったが、相当頁数が多い上に大きな写真が多いのでかなり費用がかかった。学位請求にはこの主論文に然るべき学術誌か学会で発表した副論文を三つ付ける事になっていて、そちらは既に症例報告を副論文として用意しておいた。そのあと内容を熊本の日本脳神経外科学会で発表し、昭和34年1月1日(1959)付けで学位記授与、30歳で医学博士になる事が出来た。同期生の中では二番目に早かった。

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