(58)英文投稿、学会発表 近江 達
§英文投稿、学会発表
 研究は、神経切断後に起こる神経再生もやれと言われてそこからも続けた。同時に学位論文を英文にしてドイツの専門誌に発表する事になり、こちらは大変だった。英会話も出来ないのに文章が書ける筈がない。そこで向こうの医学誌を見て術語、構文、表現の仕方などを真似て一行、二行と地を這う思いで書いていった。一年以上悪戦苦闘して何とか出来たところで木村助教授のご自宅に日参して、こんな書き方があるのか、などと言われたりしながら、幸いあまり訂正もなく完成して投稿した。
 京大内の外科や電顕の研究会から熊本での日本脳神経学会まで大小さまざまな集会で発表し、初めての体験だったが、大勢の前でも案外上がらないで話す事が出来た。いろんな演者がいて、若い人は大抵ずっと下を向いて原稿を読むだけ、何も持たないで話すのはベテラン、中間が原稿なしでメモ程度。偉い先生でもスライドを棒で指して説明するのに殆どの人が手が震えていたのは意外だった。やはり緊張していたのだろう。木村先生は平常心の人だから原稿無しで明快に話し手も震えなかった。
 原稿なしで話す方が聴衆は面白いので、私はメモだけで話しスライドを指す手も震えなかった。大丈夫かなと木村先生は心配顔だったが、質問にもそつなく答えたつもりだ。無口な為に喋れないと思われているが、責任者とか座長としてとか、会合で発言を求められた時など、喋るべき時には喋れるのである。意外に私の発表は評判がよくて話に説得力があると言われた。木村先生が私の事を掘り出し物だと言っていた、と西占先生が告げてくれたが、研究内容もさる事ながら学会での話振りがよかったのかも知れない。ちなみに木村助教授(後の京大教授)は北海道生まれ、旧制弘前高校蹴球部でウイングだった。英文の件でお宅に上がって御馳走になった時にそう伺ったが、サッカーの話はあまり気乗りされないようだったので控えてしまった。
 神経再生の研究もやがてまとまり論文を発表、これも英文にしてドイツに送った。

§英語論文で反響、外国行きの話
 末梢神経二次変性の電子顕微鏡的研究と、同じく再生の研究という英文の論文が二つドイツのアクタ・ノイロベゲタティーバに掲載されると、かなり反響があり、抄録請求の葉書がどんどん外科に届いて、延べ50カ国、100通以上あった。恐らく外科教室でも記録だったと思う。珍しい外国切手が沢山あったが、私がいつも皮科特研にいて時々しか外科を覗かないものだから、半分くらい剥ぎ取られてしまった。
 学術的価値は既にほぼわかっている事を電顕で観察しただけで大した事はない。ただ記録としては日本では変性の短期間電顕観察はやった人がいるが、変性の長期間観察と再生の電顕的研究は私が初めてだからパイオニアである。そのうちにUSAのある研究所から招聘があり、同級生で皮膚科特研出のベネズエラにいる今枝教授からも来ないかと言ってきた。木村、西占両先生に相談すると、行ってみたら面白いかも、と言われた。私も研究は面白いし学者に向いていると思う。しかしずっと解剖や病理学の研究をやる気はなかったので、評価してくれた光栄には感謝したが招聘は断った。あの時、海外に行ってしまったら今とは全く違った人生になって、枚方フットボール・クラブも皆さんとの出会いも生まれなかったのだ、と時折思う。

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