(59)ショック 近江 達
§ショック
 これより前、私は研究生活に入って間もなく結婚して、昭和34年11月に長女が生まれた。診療を京大蹴球部の先輩で開業していた貫戸先生(元京大産婦人科助教授)にお願いしたが、そこは先代の頃、往年の銀幕の大スター山田五十鈴が娘の女優嵯峨美智子を生んだ病院だった。出産はほぼ普通で無事にすんだので貫戸先生は分院に出掛けた。ところが暫くしてショックが起こりみるみる血圧が下がった。すぐに血圧を上げないといけない。だが点滴注射しようにも血管が出ない。緊急事態で私が足首を切開して皮下の静脈を露出、そこから至急大量点滴をする羽目になった。そのうちに貫戸先生も帰ってきて幸い回復したが、私が外科医でなかったら危ないところだった。

§すさまじきものは宮仕え!
 今後を考えた。京大病院有給助手は少数で第二外科は10人足らず空席はないので大学病院に残るなら無給医、それともどこかの病院の勤務医か、開業か?研究を終えて学位をもらった外科同期生のうち10名が開業、あと20名は勤務医希望で、赴任先が外科教室の世話で決まる迄それぞれ私のようにパートを続けるか、京大病院の外科に出るかしていた。そのうちぼつぼつ中小病院の医長や大病院の中級医員で出て行ったが、目ぼしい病院にはなかなか空きがなかった。それに戦後、大学新設や地方大学の台頭で、京大が各地に持っていた赴任先、いわゆる植民地が減りつつあった。
 研究室を出てからの赴任は前の新人での一時的赴任と違う。学位を得て部長や医長で赴任した先輩たちを見ると、好むと好まざるとに拘わらず任地で生涯を終える率が高く、医員で赴任しても結局そこに居付いて後年医長に昇進し永住するのが殆どだった。いわば最終的赴任で転任出来ない事はないがそう思いどおりにはいかない。子供の教育も問題で、大学進学には京阪神、地方なら大都市の方がよいが、田舎に赴任して後日子供が成長したから進学の為に都会に移ろうとしても容易ではなかった。
 開業に不向きな私は病院勤務しかなかったが、前の赴任で医長との軋轢で懲りたので、すさまじきものは宮仕え、もう二度と部長や医長の下には行くものか!と思っていた。研究的な仕事が一番向いていると思うが、あくの強い第一外科はいやだった。例えば、広高
蹴球部出で、松江は弱かったなと嘲笑し、反論すると、眠れる豚が何を言うか、と私に構った岩井講師は、私の研究発表を見て電顕は派手でいけると弟子にやらせて、研究会で私が質問するとピント外れだと一蹴した。赴任中私が或る手術をしたら、長良医長に「岩井のオッチャンでも失敗するのに優秀や」と誉められた事があったが、実力はその程度でも、この太い黒縁眼鏡に蝶ネクタイのハッタリ大先生は後に東京の私立医大脳外科教授になった。その点第二外科が良かったが、昔気質の青柳教授が教室員のアルバイト禁止で、無給医で残ると私の一家は親の世話になるしかなく、64歳の父は元気で働いていたがそこ迄は頼めない。それに老後私に養ってもらおうと楽しみにしていた母は、32歳にもなって妻子を抱えた私が未だにパート暮らしなので、親戚や知り合いの息子さんはちゃんと勤めて給料をもらっていると羨ましがってしょっちゅう私に話した。母の不満はいやと言う程わかったから無給医などとんでもない話で、金銭に疎い私も母の手前あまり薄給では勤められないなと思うようになった。

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