(60)一人医長 近江 達
§一人医長
 そんな或る日、京大の十年あまり先輩で枚方で私立病院を開業しておられる有沢先生が突然自宅に来られた。御名前は聞いた事があるが面識はない。何故来られたのか訝っていると、実は阪大出の外科医長が今度辞めるので後任を探していたら、たまたま私の事を聞きつけたので飛んで来た。ずっととは言わない、二、三年でいいから是非来て欲しい、言われた。丁度ぼつぼつ何とかしなければと思っていた矢先で、病院の格は低いが、名誉欲も功名心もない私は大学や国公立病院勤務でないと恥ずかしいとは思ってなかった。自宅に近いし、給料は悪くないだろうから母も気が済むだろうし、院長は外科だが、私の診療や手術にはタッチしないと言われたので、先の事はともかく取り敢えず勤める事にした。両親も反対しなかった。京大の木村助教授は別段賛成も反対もされなかった。パートで行っていた大阪の私立病院の院長は、何もそんなところに行かなくても国公立に行けば、と至極尤もなことを言われたが、正直言うと、宮仕えでないから行く気になったのである。だがその事は誰にも黙っていた。
 有沢病院は枚方市中宮の大工場、小松製作所の前で180床、そのうち半数が大阪から流れて来た長期療養の給刻患者で年長者が多く、外科入院は10人くらい。私はいわゆる一人医長で常勤の医員ではないが、週に三日、京大外科研究室から二人交代でパートが来た。他の科の医師はいろんな大学出身で京大出はいなかった。
 私が勤め始めた昭和37年頃、枚方で大病院は市民病院だけで周辺に団地はあったがまだ田園が多く、かなり遠くからも患者がやって来た。院長が戦後復員してすぐ研究室にいる頃に建てた木造建築はかなり老朽化していたので、二年後本館が、次いで別館が鉄筋三階に建てかわった。救急車に救急患者も多かった。マイカーが増えてきて交通事故は今の数倍、飲酒運転がザラで年末、正月はひどかった。ちゃんと運転していても相手次第、運次第で事故は起こり被害者になってしまう。そんな患者を沢山見て来たので、私は不便でも車の運転はしない事に決めた。やがて奥地開発が大々的に始まると、道路や建築などの工事で怪我人がよく来た。労働者が寝泊りする飯場では必ず飲むので酒がらみが多く、時には責任者も仲間も患者の名前すら知らない有り様で、酔っ払いの処置には手間がかかり、飲まない私はうんざりした。小松製作所以外にも町はずれに工場が沢山あり、仕事中怪我した労災患者も少なくなかった。
 初め一日に50人だった外来患者数はそのうちに100人を超えるようになった。一寸流行る内科なら珍しくない数字だが、外科ではよほど流行らないとそこ迄いかない。手術もぼつぼつあり、私は虫垂切除術(いわゆる盲腸の手術)を3センチ足らずの小さな皮膚切開で出来たので、傷跡が小さく目立たないから評判になって、一月に20人以上手術した事もあった。お陰で入院患者数も増えて常時、20名を下らなかった。
 胃潰瘍や胃癌、直腸癌、胆石、腎石から頭の中の出血、骨折などいろんな手術をやった。全身麻酔(ガス麻酔)は私の卒業後に普及したもので、赴任中、長良医長と京大の一年後輩で近くに赴任していた青柳教授の息子さん(後に外科から転向し麻酔科助教授)に教わって覚えた。パートの先生が助手をしたが、いない時は自分で先ず麻酔をかけて安定してから手術にかかった。難しい手術でも一人で平気だった。或る一流病院の先生はそれを聞いて、「その先生、手が何本あるんだ!」と言ったそうである。

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