(62)§枚方スポーツクラブでプレー再開(38歳) 近江 達
§枚方スポーツクラブでプレー再開(38歳)
 流石のサッカー狂もアキレス腱が切れた時はもう二度とサッカーは出来ないと諦めた。OBサッカーが盛んな今と違い、あの頃は30歳過ぎると大抵プレーしなくなったものだが、私は50歳迄は続けるつもりでいたのである。ところが、治って、たまに駆け足してみるとびっこをひきひきだが走れないこともない。そのうちにまたボールを蹴れるようになり、こわごわ軽いトレーニングを続けていると、3年目にはスピード、キック力、ボール扱い、全て前よりもがた落ちだが何とかプレー出来るようになった。これは本当に嬉しかった。ただし右足は膝から下の筋肉が痩せて元に戻らず、今でも左よりも周囲3センチくらい細い。利き足なので致命的だが致し方なかった。
 その頃世の中は丁度変わり目で、例えばそれ迄家庭は畳みの座敷にちゃぶ台の和式だったが、テーブル、椅子、ベッドといった洋風が増えて、戦後生まれの団地やジーンズなどが出現した。人工衛星や新幹線から生活様式や風俗など多方面に渡るこうした変化はほぼ昭和35年から45年頃にかけて起こった。サッカー界では39年東京五輪で日本代表がアルゼンチンに勝ったのをきっかけに、マスコミの扱いが変わり世間がサッカーにも関心を持つようになった。何しろそれ迄は、戦前、日本にサッカーは無かったと思っていた人さえ少なくなかったのである。翌年日本リーグが発足、42年に次ぎのメキシコ五輪予選が始まり、OBが刺激されてプレーを続けるようになって、各地で民間チームが増えて、少年サッカーが生まれた。いわゆるサッカーブームである。
 自宅の近所でも時々買い物をするうちに親しくなったスポーツ店の根岸さんが埼玉生まれ、中央大学サッカー部OBで、昭和42年に枚方スポーツクラブというサッカークラブを作った。集まった若者たちはお互い初対面、職業も教員、公務員、工員、店員、消防士から大学生、高校生といろいろ、サッカー歴もさまざま。普通、クラブというのは同じ学校のOBとか企業体や役所などのクラブだから、当時は珍しかった。私も再出発で参加したら、38歳で最年長の為に監督兼主将を押し付けられてセンターバックをやった。世話役の根岸さんは26歳、私の一回り下の巳年で関東人らしくさっぱりした好漢で、数年後、交野市に移り全年齢層にわたる生涯サッカーの交野フットボールクラブを作り上げた。今もクラブを統率して活躍中である。
 間もなくサッカーと縁遠かった枚方にもサッカー連盟が出来て、市役所や会社など8チームが加盟してリーグ戦が始まった。枚方スポーツも参加し、私は連盟の副会長になり、後に会長に任命された。松下電器のチームはまだ日本リーグでなく社会人リーグ所属で、それとは別に工員養成の松下工学院があって大阪の高校サッカー・ベスト8の力があり、枚方リーグで我々枚方スポーツといつも優勝を争った。

§名著チャナディーのサッカー
 その頃、未だサッカー関係の書物が稀だった中で、チャナディーのサッカーという厚さ5センチを超える大冊が出た。著者はかつて無敵のマジャールと畏怖されたハンガリー・サッカーの関係者で、多種多様の練習法がいっぱい載っていて、成程、欧州選手が日本選手と違って技術戦術が一体化した高度の技能を体得しているのは、こういう日本に殆ど無い練習をしているからだという事がわかった。これは大収穫だった。

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