(65)§少年サッカー育成開始、児嶋先生 近江 達
§少年サッカー育成開始、児嶋先生
 40歳になった昭和44年8月(1969)、枚方スポーツクラブでご子息がプレーしていた中村昭二さんに開成小学校の児嶋先生を紹介され、サッカー教室を頼まれた。各地で少年サッカーが始まった頃で、たまたま枚スポの若者たちをコーチし成功したので、子供から教えればもっと上手くなるに違いないと思っていた矢先だから気軽に引き受けた。これが後に現在の枚方フットボールクラブに発展していくわけだが、この時は短期間のつもりで、六年生が約20名、五年生や女子も加わり週3回練習、中村さんがマイカーで病院に夕方迎えに来て帰りも送ってくれた。冬が来て夕方暗くなると、先生が校庭の桜の木に淋しいクリスマス・ツリーみたいに電球をつけてくれた。
 小太りで快活な先生は、子供たちが早くから社会に触れて世慣れておく方が将来の為によいと考えておられたようで、学校の遠足以外にクラスの子供たちを連れて遠出したり、町の屋台で食べさせたり、教師としては押しが強く相当型破りだった。サッカーも子供たちの希望ではなくて、先生がサッカーで彼らに野生的逞しさとか根性をつけさせてやろうと思われたのだろう。ただし私は、いまだに運動部によくある指導者やOBが怒鳴りしごき時には殴り、上級生が威張って下級生をこき使っていじめる野卑粗暴な伝統が大嫌いで日本の恥じだと思っている人間だから、技術戦術的指導や練習だけで体力強化さえ大してしなかったから、たぶん先生の狙いと違っただろう。
 翌年春、サッカー教室は文部省公認のサッカースポーツ少年団になり、中嶋、山田など六年生が卒業、中学に進みやる気満々でサッカー部に入った。ところが或る日、彼らがうちの練習に来ているではないか!尋ねると、ボールを使っての練習は上級生だけで、新入生はグラウンドを何周も走って兎飛びや球拾い、掛け声ばかり。それでボールを使う練習がしたいのでこちらでも続けたい、部活も続けるが、と言う。今でこそ中学生の学校以外の社会体育クラブが全国に千近くあるが、当時は殆ど無かった。クラブは小学生止まりが常識だったから驚いたが、やむを得ず続ける事になった。
 しかし何しろ部活以外は落ちこぼれ、遊び半分と白い眼で見られた時代だ。間もなく彼らは上級生に掛け持ちは許さんと責められるわ、先生に、そんなもので体力はつかん、中学サッカー部でやれ、と言われるわで、結局、退部。全国でもまだ数えるほどしかなかった中学生の部が生まれて、一緒にパイオニアの道を進む事になった。
 もともと私には受験勉強でもそうだったように、見かけは無口で暗いが、何をやるにも成るべく面白くやろうとする癖がある。ましてサッカーとなれば、人に教えるにしても楽しく面白くなければならない。と言っても私自身は神経質だから、現役時代、自分のプレーへの後悔、反省、チームだから人間関係、考えや判断の違い、他への不満などいろいろあってそうはいかなかった。だからこそなおのこと子供たちを、サッカーは面白いぞ!面白くやろうじゃないか!という風に育てていきたいと思った。
 今でもそうだが、指導者の中には子供相手だから暴君になれるのが楽しみでやっている怪しからん者がいる。それ程でなくても大抵、元気な者に甘く、おとなしいと無視する。私は自分が遠慮勝ちで、控えめな子の気持ちがよくわかるので、のびのび出来るように工夫して叱らなかった。だから他所では駄目と思われるおとなしい子や運動の苦手な子でも充分上手くなった。これが私のひそかな自慢だった。

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