(68)§神戸FCとの交流、加藤先生のご厚意 近江 達
§神戸FCとの交流、加藤先生のご厚意
 4年目に入った昭和47年5月、中学生、小学五、六年生が初めて神戸フットボールクラブと試合した。神戸は既に戦前からサッカーが盛んで、神戸一中が何度も全国制覇、日本代表選手も一中OBが多く、戦後いち早く復活を目指して少年のクラブが数多く生まれた。その中心が神戸FCである。総帥加藤先生は旧制神戸一中出身の開業医で、日本サッカー躍進を夢見て神戸FCと日本の少年サッカー興隆に身命を捧げておられた。枚方FCは無論のこと、西日本少年サッカーが今日あるのは先生のお陰である。この時の枚方のプレーぶりが先生のお眼鏡にかなって以来交流が始まり、清水の夏の大会に面白いチームだからと推薦され、安井以下、六年生チームが参加、地方の一クラブに過ぎなかった枚方FCがいよいよ全国的表舞台に登場する事になった。

§子供らしいサッカーながら清水大会で健闘、兵庫県大会優勝!
昔、東海に君臨したのは刈谷で、それを目標に藤枝が台頭した。そして堀田先生率いる清水は今やその藤枝に追いつけ、追い越せと全市を挙げて驀進中だった。がっしりした体格、ダミ声、タフでボス然とした堀田天皇と呼ばれたカリスマには将来日本代表チームを市選抜の清水フットボールクラブ出身者で占めたいという野望があり、やがて小学生日本一の王座を奪取、さらに韓国を制して、全国の指導者が彼の一言一句も聞き漏らすまいとするくらい崇拝されるようになるが、当時はその直前で、70連勝の王者、藤枝の水野先生は切れ味鋭くいなせで精悍、それに静岡城内クラブの納谷さんも見るからに豪傑ときたので、三人三様ながら関西の指導者に無い戦闘的雰囲気が漂い、試合は案の定厳しく本格的でとても小六とは思えず初めて見た私を驚かせた。
 藤枝、清水の選手たちは大人の正規の広さのピッチを物ともせず韓国的に長距離を疾走、ダイレクトパスを多用して大きく展開、守りも密着マークから激しく当たり、スケール、プレー、全て大人なみだった。他のチームも同様で、城内だけが珍しく全員がドリブル、枚方よりも長い距離をしぶとく次々に走りに走る様はこれまた圧巻で、頭ごなしにドリブルは愚かな悪いサッカーと叩かれた時代に、自他共に許すシンプルサッカーの王者藤枝、清水に敢えてドリブルで挑戦するところに納谷さんの意地がこもっていて、なるほどこれが日本一を争う静岡県のサッカーかと感銘をうけた。
 その中でただ一つ、枚方だけがスピードといい狭い展開といい、ひどく子供っぽくて藤枝に8−0で惨敗、観衆に嘲笑され連敗しかないと侮蔑された。ところが意外にも実力静岡県三位の浜松を3−1、浜松を破った清水の五年生にも1−0と勝ち大会三位に漕ぎつけたから嬉しかった。推薦者の加藤先生にも面目が立った。清水の人たちは枚方の幼稚なサッカーの勝利をどう思っただろう?(付記. 後年、清水FCはブラジル遠征で子供はドリブル自由がよいと教わり少年サッカー指導法が若干変わる。)
 十二月、このチームは兵庫県大会に招待され優勝。個人技抜群で枚方は一躍有名になった。小四でサッカーを始めた頃、全員が団子で走っていた事を思うと感無量だった。ほぐれる迄10ヶ月かかったが、その後は順調で面白いゲーム的練習や選手たちが自発的に試合を進める独自の育成法が奏効してここ迄うまくなれたのである。スパルタ教育で大きなパスで走らせていたら上達どころか、とっくに皆やめていたと思う。

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