(73)§いやでも上手くなるように、共鳴者と交流、水島武蔵 近江 達
§いやでも上手くなるように、共鳴者と交流、水島武蔵
 クラブが有名になると遠くからも入ってきた。うちの連中は大体デリケートで弁えているが、粗野な部活育ちの彼らは活発で、私が黙っていると勝手気ままに振舞ったり天狗もいたりでトラブルも起きた。高級な指導を期待したのに放任ではないかと失望したと思う。教えてくれないと怒って子供をやめさせた親は元選手だった。指導者でも大抵私のあまり教えない育成法を理解出来なかったから無理もないが。
 練習はノートに書いたプランで進めた。ありきたりの練習法ではない。目標にした大人になった時の選手像から逆算し、個人として、グループとして、チームとして必要な技能を順序よく修得出来るように、連日ありったけの知恵を絞って練りに練った練習法で、当日も練習中に人数や顔触れ、効果などを見て適宜変更したり、要点や注意などをメモして修正したり、次ぎの練習法を考えたりした。殆ど教えないのに少年たちが上手くなるのが不思議だとよく言われたが、やれば、いやでも上達するように工夫した練習法で、彼らが面白くて熱中したから私は喋る必要がなかったのである。
 隣の交野FCとはずっと親しく、遠くから学校やクラブの指導者、関係者が来られた事もあり、金沢、新潟の先生は二回目に小学生チームを連れて来られて試合した。愛知県高浜のように交流が続いている所もある。きっとお役に立てたと思う。
 東京の柔道家、水島虚雪さんは藤枝出身で大のブラジルサッカーファン。息子の武蔵をスパルタで鍛えて、町を行く時もボールつきで歩かせたというから尋常ではない。小学生から清水に留学、一学年上の清水選抜のセンターフォワードで活躍していた武蔵が、いよいよブラジル留学を決行する前に多少ブラジル的にボールを持つ枚方でやらせてみたいと、昭和48年の夏に親子で滞在、練習に参加、佐々木、小松、北川弟などとプレーした。清水らしく非常に機敏な人間的には文句なしのしっかり者で、翌年、10歳でブラジルの名門サンパウロに入り成人して初めての日本人プロとして活躍した。
§通知票、狭い練習場、コーチ依頼
 小学生は通知表を作って、攻撃(個人技、連係、得点力)、守備(阻止力、マーク、カバー)、戦術的能力(見る能力、予測判断力、創造計画力)、体力、精神面などを10点評価。報告、予定や方針、考えなどを手書きコピーでニュースとして発行した。
 幸い評判もよく毎年、小学生低学年が入って来た。人数は増える一方で、51年には小学生180、中学生40、高校生16、合計236名になった。練習は2校借りて週5回。私一人では無理になり、二、三人頼んでコーチをやってもらった。開成校に全員が集まる土曜日午後の校庭は凸型で横40-60米、縦50-90米しかない。私一人だと先ず一、二年生を始め、すぐに三年生にかかり次ぎに四年生、あとは巡回指導で、終わると五年、六年、夕方に中学生を始め6時過ぎて高校生と大変だった。休日は各学年、それぞれ試合、毎年春休みに中高校生が静岡遠征、夏休みは小中が神戸のフェスティバル、高校生が東京のクラブユース全国大会、臨時遠征もあって、私が全部行く事は無理だった。病院を休むのはせいぜい3日にしたいので遠征を他のコーチにも頼んだ。後に二人コーチがつく事になったが、初期は経済事情の為に一人で引率したので交通費や滞在費支払いから選手の体調注意、雑用など大変だった。感謝している。

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