(75)§一期生宮川にあとを任せて引退 近江 達
 翌年、八期生は高三になり再びクラブユース選手権決勝に臨んだが、大学受験準備でメンバーが一部欠けた為、プロが町のクラブには負けられぬと日本リーグ読売の菊原まで投入して必死の読売ユースに延長の末、敗れて準優勝に終わり連覇を逸した。
☆相田、上田、垣本、坂本、小西、安高など十期生も優秀で大阪中学大会優勝。村川弟は全国中学生選抜大会(クラブ、中学サッカー部合同)で最優秀選手に選ばれた。ユースになって京教大を破り同志社大に善戦、強豪国見高に個人技で上回り藤田、村川が得点したがコーナーキックから失点、2−3で惜敗。クラブユース選手権三位。
§一期生宮川にあとを任せて引退
 昭和63年(1988)、少年たちとの心情的距離が年々遠ざかり限界を感じていた私は小学生から指導してきた十期生の高校卒業を機に59歳で引退した。全員は指導出来なかったので他のコーチにも担当してもらったが、そのクラスには私が担当しなかった不満が残った。指導を続ける限りそんな不公平が起こる事も引退理由の一つだった。後任の新代表は一期生の宮川で、まだ小五でサッカーを始めて間もない頃、校庭の鉄棒の辺で遊んでいた彼を見て、何故かふと、あとを任せるとしたらこの子かな、と思った事があった。誰にも言わなかったが、奇しくもそれが現実になった。
§サッカーはゲーム(勝負事、遊び、競技、試合という意味)、教師なし学習
 本業の傍ら、良質のサッカーが出来るハイレベルの選手育成を目指す研究心と、私を信頼してくれる少年たちへの責任感からひたすら指導育成に心血を注いで20年、私独自の育成法で彼らはこれ迄にないタイプの知的で優秀な選手に育ってくれた。サッカーと無縁な地域、しかもあの狭い校庭で練習量は一流部活の半分以下という悪条件だっただけに感慨無量で、数々の大会優勝以上に嬉しく誇らしかった。
 独特のゲーム的育成法考案は、練習量や努力の割に成果が上がらない従来のサッカー教育に対する不信感からで、遊びのサッカーがヒントになった。もとをただせば欧米の、つまり本来のサッカーはゲーム(遊び、試合)だ。だから欧米では遊びのサッカーの中から優秀な選手が次々に生まれてくる。日本がうまくいかないのは遊び禁忌の学校教育サッカーでゲーム(遊び)と異質だからだろう。そう思えたからである。
 相手なしの形式主義的練習が多い中でゲーム的練習は変種だ。それでもはた目にも楽しそうだと意外に好評で、予想どおり、練習でも試合でも少年たちはゲーム(遊び)のように面白くて勝ちたくて自分から進んで自由にプレーする方が、学校教育的にやらされるよりも遥かに、しかも自力で上達し、必要な感覚も発達して頭脳を使うので戦術的能力が充分身につく事がわかった。それがサッカーの本質だからだろう。
 中学生になるとよく選抜と誤解されたが、選抜どころか入団テストもない普通の少年たちで、高度の技能は楽しそうな練習や教師なし学習の賜物だった。優れた選手が持っている勘やコツ、感覚などは教えられないので教師なし学習と言って自分で会得するしかない。成功するものは少ないが枚方の資質ある少年はそうした感覚や能力を体得出来た。無論本人の教師なし学習と才能によるものだが、幼少時からの自発性育成と実戦的練習、高い自由度や研究的雰囲気がそれを容易にした事は明らかだった。

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