(80)§外科よさらば 近江 達
 何しろ枚方は大阪府下で開業医が一番多い。米国帰りの某医師は院長に頼んでうちの内科に勤めて顔を売ってから近くに開業した。昔からよくやる手だが、どうかと思う。うちのすぐ側に小病院を始めた別の医師も商売気たっぷりで、患者が「あの先生、ものすごく愛想がええなあ」と感心したくらいだから当然患者が集まった。
 入院手術も減った。これ迄赤字でも平気だった近くの市民病院や厚生年金病院が本腰を入れて収支改善をはかる事になり、最近レベルアップしたので市民の信頼度が増した。その上、ここ数年来、世間の人々の大病院志向が一層強まって、これはと思われる入院手術は大学病院やそういう国公立病院で、という使い分けが世間の常識になってきたものだから、中小病院で手術入院する患者がなくなって来たのである。

§外科よ、さらば!
 二、三年のつもりで赴任したのが20年を越えてしまって、世の中も医療も病院内も変わり、新設の人工透析科は腎不全患者の血液を浄化する新医療で医大系のスタッフがお高くとまっていた。そんな折麻酔医で少し前から勤めていた有沢院長の長男が急死。有沢院長は昭和62年に理事長に退き、京都で病院長だった某府立医大出の整形外科医を院長に据えた。私は有沢先生を傲慢でデリカシーがないと非難した事があったが、この人選もそうで、新院長は見るからに陰気で冷たく、医師を自分の旧知の配下と入れ替えメンバーを一新する計画がうかがえた。医業界では上記のような周辺の開業医増加や人々の大病院志向といった事以外に、少子化で産婦人科がさびれたように生活環境改善で盲腸炎や化膿、怪我など外科系傷病全体が減り中小病院の外科はどこも皆落ち目になっていた。在職26年、私なりに病院の中核としてベストをつくしてきたが外科の見通しは暗い。ちょうどサッカー指導を止めたところでもうここに留まる必要はない。いい年をして今更不快な新院長の下など真っ平だから、昭和63年2月に退職。手術ともおさらばして34年の外科医生活が終わった。59歳、悔いはなかった。

§老人病院
 2カ月後、淀川に近い新設老人病院に内科医として就職した。ベッド数400床、院長は偶然、私が卒業してから数年後に出来た京大医学部サッカー部の部長だった胸部外科の寺井名誉教授だった。私は京大体育会のサッカーなので初対面だったが、副院長を仰せつかり、素人にも拘わらず君しかいないと、数人の内科医を差しおいていきなりICU、集中治療室を担当させられたので面食らった。
 10数年前からだろうか、患者の容態が悪化して24時間注意して治療しないと危ない場合は、ICUに収容して集中治療を続けるようになったのである。血圧、心電図などのモニターつきで異常事態には警報が知らせるようになっていて、持続点滴注射をして、呼吸困難だと気管内挿管して酸素吸入や人工呼吸装置などを使って救命に努める。老人病院だから次々に衰弱するので、12ベッドはいつも満床だった。心停止すると胸を押して心臓マッサージを続け、いろいろ手をつくして駄目なら死亡確認となる。交代なしで数時間心臓マッサージを続けられるのが私の特技で、助からぬまでも患者さんとその生涯に敬意を表して私が贈る最後の奉仕と儀礼のつもりだった。

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