(81)§騙された話 近江 達
§騙された話
 ICU担当は優秀な医師が見つかったとかで2カ月で交代になった。後任は某医大卒、米国留学、某国立大講師という経歴で、整形外科が専門にも拘わらず全科万能という。聞いただけでも眉唾だが、この病院を作ったオーナーは不動産業者で素人だから真に受けて、彼に病院を任せるからこれで安心だと大喜びだった。ところが彼がICUを担当してから死亡続出、私の時よりも成績が悪化した。何でも出切る筈の大先生が呼吸困難な患者に気管内挿管が出来ず片っ端から気管切開をするわ、検査データがわからないわ、点滴輸液がおかしいわで、忽ち看護婦たちから非難の声が上がった。気管支切開は喉を切って穴をあけるから、他に方法が無い場合にやるだけで、普通先ず口から気管内に挿管する。挿管出来なければ出来る医師に頼むべきだが彼は頼まなかった。第一、日中でなく皆がいなくなった夜働くのだ。調べると経歴は本当だが、全科万能は嘘で、ICUどころか内科診療さえろくに出来ない事がわかった。
 実は私はさもありなんと思っていた。初対面で、どこか怪しげな雰囲気の彼が「若輩者ですが、よろしうお頼ん申します」とドスを効かせたヤクザ口調で挨拶したからだ。いつもそうなのか、脅しか、そんなのにまともな医者はいない。もともと内科、外科、小児科、産婦人科、等など、それぞれ専門的修行が要る。全科が出来る医者はあり得ない。馬鹿々々しいが、何か仕出かさないか危険だった。それにしても世間知らずの私でさえ最初に一発でわかったのに、不動産業者で世間の裏の裏まで知り抜いている筈のオーナーと、海千山千の狸事務長がコロッと騙されて、皆がおかしいと言っても信じないで彼を庇ったから不思議だった。素人の悲しさで半信半疑のオーナーたちも、大阪の知り合いの医師に相談して不適格と判定されたので流石に諦めざるを得なくなったが、惚れこんで彼を引き抜いてきて住宅や車に電話まで付けて優遇してきた行きがかり上、本人に言いにくいのか、言えない密約か事情があるのか、オーナーたちは何も言わず、結局、医師懇親会の席上で院長が彼にICUからリハビリ科担当へ職場変更を宣告、彼も了承したので一安心、大事に至らないでよかった。
 その後、彼は脳出血で退職、何処でどうしたのか、大量の医療器具が自宅にあった。数年後、何かの事件で有罪になり医師免許を剥奪された者の中に彼の名前があった。
§寺井京大名誉教授、いつも笑顔で!
 ICUから3階の病棟に移り患者100名余りを主治医として診療した。商売人のオーナーらしく毎月発表される各医師の診療収入は私がトップを続けた。村夫子然とした眼鏡の寺井院長は京大の7年先輩で、一度、京都河原町の懇意な店で極上の甲州ワインとビフテキを御馳走になり、白い巨塔のように、教授になる為にいろいろ工作してライバルを遠ざけた裏話が面白かった。私が笑うと、「先生、可愛い顔になるね!病院でもっと笑いなさい、いつも笑顔で!」と言われた。苦労人なので、六十過ぎても娑婆気のない私の取っ付きの悪さが目に余り、人間関係が大事だからもっと愛想よくして上手く世渡りしなさい!と忠告してくれたのだ。以前、サッカーで加藤先生に、もっと喋りなさい、と言われた事があった。笑えと言われたのは初めてだが、上司に恵まれなかった私はご厚意が嬉しかった。今でも思い出すと懐かしくてほろっとする。

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