(82)§入院 近江 達
§入院
 平成三年、62歳、やたらに風邪をひくうちに喘息になった。すっかり忘れていたが祖母が喘息で遺伝があったのだ。胸の中に横に棒が入っているようで呼吸しにくい。もしも呼吸できなかったらという恐怖感があり、翌年、遂に肺炎で京都北部の病院に入院した。大学の同級生は三分の一が既に亡い。私も一時は危なかったが幸い2カ月で退院出来た。辛かったが面白い事もあった。若い頃から鶴田浩二、滝沢修、田村高広、歌舞伎役者、いろんな人に似ていると言われたが、年で髪が薄くなったものだから中曽根元総理みたいだと言われたので笑ってしまった。真冬で家内が枚方から病院まで雪が降っても食べ物など運んでくれたので助かったが、弱り目に祟り目で三月に他の病院に入院していた母が亡くなり、私が入院中で、臨終から葬式まで家内が全て必死でやってくれた。ずっと両親と同居で父は20年前に死亡、心配性の母は私がサッカー遠征で留守だと一日に何回も様子を尋ねに来る始末で家内は随分苦労した。子供の教育も任せきり、サッカーも彼女のお陰で出来た。とても感謝している。お陰様で創造性豊かな姉はグラフィック・デザイナー。幼い頃、お父さんのお仕事は?と何度尋ねられても、サッカーと答えて笑われた弟は精神科医になって働いている。
§最後の医業
 老人病院は病気入院で辞職。退院後静養、持病になった喘息がやっと軽快したので、平成五年から64歳で枚方市郊外の私立病院の内科にパートで勤務した。昔は辺り一帯田畑で十数年前に開けて住宅が建ち並び、新設のこの病院などが流行った為に当時私が勤めていた病院の外科が斜陽になったのだ。まさかその病院に勤める事になるとは夢にも思ってなかった。私より10歳くらい若い院長夫妻は私を知っていたが、有為転変は世の習い、つい先日死にかけてもはや余生!別段悪びれもしなかった。
 人々の生活や衛生環境の好転で以前とは病気の種類も患者層も変わり、診療は一にも二にも検査、データーで診断して治療する。コンピューター任せでもいいくらいで、医師も苦痛や悩みを抱えた患者という人を治療するのは大変だが、検査データーの改善だけで医療がすめば気楽かも知れない。大半を占める成人病患者の中にも医師に自分のデーターを
改善させるといった感じの人もいて、今昔の感があった。私が若い頃60歳以上の医師を見ると、とても老人で現代医療に疎いように思えたものだ。今の私も米国式マニュアル時代の若い医師の眼にそう写っているのだろう。
 平成13年退職、72歳。私の医業は終わった。医師生活47年間、外科34年,内科13年。外科医と内科医は正反対のようだが、私の場合、違いは手術の有無だけで、サッカーでもそうだったが、研究者と職人といった両面があるので支障はなかった。社交性ゼロで人柄や能力がわかると必ず信頼されたが、指導力や統率力もありながらいわゆる出世は出来なかった。それは構わなかったが、ただ手術に自信があったので、大学なり一流病院なり然るべき場を得ていたらひとかどの業績を残せたかも知れない。二流病院の勤務医で終わったが、それも外国行きの話もあった幾度かの人生の岐路で自ら選んだ道で、沢山の患者さんのお役に立つ事が出来た。それにスポーツマンらしからぬ性格と病弱の身で医療とサッカーを両立出来たのだから以って瞑すべきだろう。

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