(83)§音楽、絵画 近江 達
§音楽、絵画
 話は戻る。枚方FCのコーチをやめた後、病院勤務だけで暇になると思っていたら病気になって、回復した平成五年にはもう64歳になっていた。静養中、以前からのマンドリンやギターの復習と新たにアコーディオンを始めた。教わるのが面倒だから全て独学で、子供の頃、絵が得意だったのでアクリル絵の具で絵も描いた。詩が好きだから、これと思う詩に合う絵を描いてその詩を書き込んだり、逆に描いた絵にはまる詩や言葉を入れたりした。いわゆる詩画である。北原白秋、堀口大学、宮沢賢治などの詩が多く翻訳詩もあり、我流で墨江や俳画も描いた。長年の勤務から開放されて自由を満喫、とても快適だった。復帰後もパート勤務で気分が楽だから時折演奏や絵を続ける事ができたので、毎月1枚出来上がると病院の食堂や廊下に掛けてもらった。
§サッカー再開
 そのうちに少し体力が回復してくるとぼつぼつサッカーがやりたくなった。以前は高校や大学のOB戦に時々参加していた。旧制松江高校OBの試合に私が入るとプレーが全然違う、配球や展開が良くなると喜ばれ、時折得点したが、枚方FCを始めたのでいけなくなった。コーチを辞めたのでまたいけるようにはなったが、病後は持病になった喘息で、走るとすぐにゼーゼー息切れして呼吸困難になる。昔なら絶対無理だが、最近は良い吸入薬があるのでやっと何とかプレー出来た。と言っても普通の患者なら当然禁止のところを自分が医者だから強引にやっているわけで、いつも胸の中で呼吸ごとに音がしていて、風邪をひくと悪化して困った。救急車を呼ぼうかと思ったり死の恐怖を感じた事さえあったが、幸い大事に至らないで年々ほんの少しずつ軽快しつつある。鈴木先生はじめお世話になった先生方のお陰で心から感謝している。
§白線クラブ、65歳
 平成六年、戦後廃校になった旧制高校OBの白線クラブに加入した。この名称は学生帽に三高と松江が三本、他の旧制高校は二本白線がついていたからで、私大予科のOBも加わり日本代表だった宮田さん(神戸一中、早稲田大学)、恒藤先輩(水戸高、京大)もおられた。監督もコーチもいない。注意、打ち合わせ、反省一切ゼロ。メンバー、ポジション、交替は幹事が決めた。社会的地位のあった人達ばかりで紳士的はいいが、レベルが低いのでこう何もないのも困る。60歳以上でまだプレーするのは上手いからだろうと思うと左に非ず、参加する事に意義ありの素人や走れない肥満体、とんでもない下手な人などがいて向上心もない。それでも白線クラブは寛容で試合は全員出場だから人数が多いので半分しか出られない事が多い。正直迷惑で、20分ハーフだから調子が出てきたところで終わったり、ろくにボールにさわれなかったりで不満だった。よそは昔のOBサッカーと違ってやや本格的で、相当走るし少しレベルが高くて結構厳しいのでそんな人はいない。白線はいい鴨で馬鹿にされて悔しかった。
 白線では例によって左ウイングに回された。右利きで右ウイングは好きだが、左は苦手でやる気がしない。それでもずっとやっていたので専門と誤解されているらしい。それに三流チームではあまりボールが来ない。どこでも右利きが多いせいだろう。

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