(85)§ねんりんピック 近江 達
§ねんりんピック
 ねんりんピックにも2回出場した。60歳以上の全国大会で毎年会場が変わり京都代表で出たときは大阪大会だった。福井大会は大阪代表で恒藤さん(京大の先輩)と私がツートップだったが、攻撃になると必ず中盤のリーダー的選手がトコトコ上がって来てセンターフォワードの位置に入りボールを捌く。それはいいとしてもなかなか元に戻らない。こちらは横に開いたままで妙な具合だった。某クラブの選手が多くそこの攻撃法らしいが、ゆっくりで意外性ゼロだから守備も崩せず得点も生まれなかった。こちらを信用してないのと、全てをリードしたくて中盤とトップ両方やりたかったのだろう。案外ドリブル好きが多くこのタイプの共通点でシュートがない。私が意外性狙いで突然シュートしたら、「止まってシュートするな!」と怒鳴られた。
§京都暁フットボールクラブ
 白線では物足りなかったので、喘息が軽快し少し走れるようになると、京都の暁クラブにも加入し交野FCにも出してもらった。暁は少年から大人、女子と多部門にわたる大きなクラブで、私が入った60歳代のベテランチーム(V)のクラブ員は出身が京都教育大、同志社、立命館、京大、その他。流石に白線よりレベルが高く京大の宇治黄檗グラウンドで月1、2回練習。随時試合がありよそへも試合に出掛けた。
 メインイベントは神戸の加藤正信先生が各地の少年サッカー後援と生涯サッカー興隆を狙って1975年頃に創設した西日本OB連盟の大会で、年齢別にパンツの色を40歳代は黄、50歳代が橙、60歳代は赤、70歳代が銀、80歳代は金と決めて交流した。大変な功績だと思う。京阪神だけでなく各地で大会がひらかれ淡路、滋賀、刈谷、清水、福井、石川、別府、高知などに遠征。私は暁と白線に掛け持ちで出場した。
 暁でも左ウイングだったが、そのうちに70歳以上の人数が増えて来たのでロイヤルチーム(R)を作ることになり、次第にロイヤルのセンターフォワードをやらせてもらえるようになった。丁度その頃、白線クラブでも以前からレギュラーのセンターフォワードが休みがちになってきたので、白線でも私の出番が増えてきた。
§センターフォワード、70歳の手習い
 実は中一の初試合、12歳の初出場が中三以下ジュニアチームのセンターフォワードだった。ポジション的な指導も練習もなしで出されて、無我夢中で何も出来なかったので次ぎから右ウイングに回された。その後高校大学でもやらなかったしOBのは遊びだから、今回70歳過ぎて初めて本格的にやるようなもので、理屈は知っているが他のポジションと全く違うし、得点する責任もあり、予想した以上に大変だった。
 第一、相手ゴールに背面することが多いので、ゴールと背後の相手の選手が何処かわからない。ゴールと相手を見ておいても、いよいよボールが来そうになるとボールから目を離せないので、一寸味方のキープが長いと相手やゴールがわからなくなる。ボールを受けた瞬間ゴールを見る余裕がなくて、妨害される前に急いで勘でゴールとおぼしき方へシュートすると、たいてい外れるか、キーパーの正面にボールが行ってしまう。楽にボールが見える他のポジションが如何に恵まれているか初めてわかった。

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